2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ16

最北の黒河街 も日本にも大きく係わりがありました。

  • 璦琿記念館ラジオラマは価値あり







                    璦琿条約前は)沿海州も
                  樺太もその北も中国のもの                                             

    璦琿条約は、ロシア帝国と中国の清が、1858年5月28日に中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約です。

条約によって、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。

これに対抗するべく、清国は、その対岸に国境警備軍司令部を置き、さらなる南下をもくろむロシアをけん制しました。

  
 これが黒河市の最初です。黒河事件の一つです。

 25000人が戦死、3000人が虐殺だったそうです。

  

  もう一つの黒河事件は日本人が中共軍に虐殺されたものです。
 1946年にソ連は身体の弱った日本軍捕虜を黒河に逆送した、最低でも1200名以上、一説には3000名程がブラゴエスチェンスクから黒河へ逆送され半数程が名前も分らず死んでゆき、600名程残った捕虜は1946年6月21日に脱走したのが事件の始まり。

 

 その当時、国民党(光復軍)と中共軍(八路軍「林彪」)の内乱に巻き込まれ、脱走を図った日本軍捕虜500人以上が中共軍に虐殺された。

 

 針金で数珠繋ぎのまま日本刀で突かれ黒龍江に放り込まれた人は80人はいるという。日本へ帰った人達は125名だそうです。病人が多く将校以上は処刑されて、氏名の記録等も少なく実際の人員把握が出来ていないということです。

 


 曖揮条約頃から日本人も黒河奥地の黒河省呼瑪県金山鎮付近で砂金が多く発見されていたことか、大正3年シベリア出兵当時はロシア人が多く入り大量の砂金を採集していた、日本は満州採金会社が独占事業として採掘した。
 

 日本人(200名程)が大金を稼ぎ、それに就いてきた娘子軍(慰安婦・女郎)もおり最後にここに集まり、ロシア人、満人相手に春を売りこの地に死したそうです。

 近くには苔むした小さな墓有りとのこと。彼女たちを「からゆきさん」と呼んでいたそうです。

 

 からゆきさんの一人と思われる日本女性は張作霖と関係ある孫花亭と仲良くなった「お菊」と呼ばれていました。日本軍の行動様式の知識もあり馬賊の頭目である孫花亭の右腕となり配下から慕われる存在になりました。


 「満州お菊」の名前は全満州の馬賊に知れ渡り馬賊間の縄張り争いをよく仲裁し、彼女が発行した通行手形は信頼されていました。

 

 当時は日本から馬賊になった有名人は伊達準之助などが有名です。日本で生きる術を持たない人たちが、大陸に目を向け「狭い日本にゃ住み飽きた」と、馬賊に憧れて大陸に憧れて渡った者も少なからずいました。

 







   辛亥革命による清朝崩壊、第一次大戦勃発。お菊は孫花亭と共に大満州の広野を駈けていたのです。

 そのお菊が大正5年頃から黒河の黒龍江の向かい側の地、ブラゴベシチェンスクに
「オーロラ宮」と云うバーを開いたのです。一説にはロシア革命前夜であり、密命を日本軍から受けていたとも言われています。しかしお菊はソ連領から出る機会を逸し、アムール河の河口の町ニコラエフスクにて孫花亭に看取られながら40年の波乱万丈の生涯を閉じたのです。からゆきさんと呼ばれた日本人女性が活躍していたとは今、誇らしくさえ思えます。

 
                      昭和20年当時のボクが通ってた
                          在満黒河国民学校


 当時(1945年)在満黒河国民学校4年生、日ソ不可侵条約を破棄したスターリン率いるソ連軍は独ソ戦に勝利した勢いで満州に侵攻して、日本のシベリア出兵と日露戦争の報復をしたい放題にして、臨時招集された日本兵60万人をソ連へ連れ去り6万人の死者が生じ、在留邦人約27万人を死亡させた惨劇は日本民族として許しがたいものです。いまだに野ざらしのままの遺体はもう中国の土になったでしょうか、当時生きていた私は決して忘れはしません。もう旧満州に行く体力もなくなりました。下記の写真も実存していません大地の土になった君たちにお祈りをして黒河からお別れします。








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