2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ13

斉斉哈爾(チチハル)では何故か旅館住まいでした。






旅館は裏道りで近くには満人の家が立ち並び、本当に満州臭い場所だったと記憶していますが、学校へはどう、行ったか覚えていません。
それは昭和18年秋で、国民学校2年生でした。旅館のボーイが宮前国民学校前まで毎朝送ってくれました。帰りは自分一人で帰ったつもりです。

 母は旅館生活は楽で、転勤のため梱包した、柳行李、布団袋、リンゴ箱の台所用品等は一切開かずそのまま旅館に置いてあったそうです。

 冬が近かずきボーイを連れて、衣服はシューバー(皮の外套)を初めとして全て極寒の黒河のための買い物を楽しんだそうです。チチハルは大都会であり全ての日用品は揃っていたそうです。

 父は情報機関員(スパイ)のための研修を受けていたらたらしくたった3か月間のチチハル滞在でした。

 12月に父の転勤命令が出ました。黒河警務庁無電室勤務、待遇は警佐です。刀吊は青色から赤色になっっって、位が上がり喜んでいました。階級は警佐です。

 当時の階級位では警察署長ぐらいでした。

満州当時   警士・警長・警尉補・警尉・警佐・警正。
日本の現在   巡査・巡査長・警部補・警部・警視。

 しかし黒河では帯刀も制服を着ることも許されず身分も同僚や日本人にも明かすことなく、黒河省公省事務官を名乗っていました。
 
 第4話  黒河(こっか)

 昭和18年12月初め父の転勤で黒河への途中富裕県の亜州白山郷開拓団に立ち寄り父の郷里、金沢市木越町の方々に逢うために富裕駅で列車を下りて一晩泊まり2家族を呼び歓談したそうですが、私は汚い満人の宿屋しか記憶してません。父は日本へ帰ってから消息を調べたそうですが誰も帰っていないとの話は母から聞きました。

 図書館で調べました。北さん家族は8人でした。一人だけ日本へ帰っていました。7人は白山郷開拓団の悲劇により昭和20年8月27日に死亡です。どんな死に方をしたか一人一人が異なる死に方をしているでしょう。もう一方Kさんの夫は応召でソ連へ抑留、故郷に帰っても奥さんは帰っていませんでした。著書「8月27日」に生き残った人の叫びが記されています。

 こんなことを調べていると私は幸せな方です、弟妹3人だけの犠牲、一家全滅だったら、この世に生きていた明かしも無く人間を終えていたことでしょう。

 満州での出生届は在満州国全権大使に届け出することになっており、ソ連軍進駐により、関東軍は書類全てを焼却又は廃棄しており、たとえ存在していてもソ連軍は書類、紙切れ一枚も日本国への持ち込みは禁止していました。

 そのため、満州で生まれて死んだ子供たちはこの世に生を受けた証拠がありません。
また家族全員全滅した人、単身で満州で行方不明になった人は遺骨が何処にあるかもわかりません、そんな人たちの調査は全く行われていません。

 私の弟妹3人も日本に出生届はありませんでした。父は市役所で強引に出生届と死亡届を提出したそうです。

 市役所は満州で生まれて死んだ人の証拠も無いのに初めは届け出を拒んだそうです。戦後の北満州の混乱を知らない役人、役人は何でも証明するものを出せ、と云います。 もっと生きている人間を信じて物事を処理してほしいものです。 

 最近私は兄弟も満州で死んだが入籍ができず、お墓だけに名前を記した人を2名知りました。市役所は証拠を出せと云ったそうです。戦争に負けた日本は満州からは紙切れ一枚持ってこれなかったのです、見つかれば引き揚げ者グループの一団に迷惑をかけて引き揚げ中止と脅かされていたからです。

 チチハルから北安、経由、黒河への車窓風景は平成5年(1993年)は昔の面影があるものでした。鉄路の沿線は湿地が多く耕作地は少なく、人家もなく荒涼な半湿原地帯でした。
でも現在は湿地が水田になっているそうです。

 戦前黒河駅は街はずれの原っぱの中にありました。
2011年9月黒河駅はネオン輝く立派な建物でした。駅前もネオンが輝き戦前の面影は全くありませんでした。

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