2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ15

 冬は毎日学校の授業が終わるとスケート三昧、女子はフィギャースケート靴、男子の高学年はロングスケート、低学年はショートスケート刃で靴の長さと同じくらいの刃の長さです。
 


 教室の後ろにスケート刃砥ぎ台が2台置いてあり、休み時間になると先を争って砥ぎ台でスケート刃を砥いでいたものです。


 学校へ行く時は戦車壕が川になっており滑りながら学校へ行くことも楽しみなものでした。
  近くの満人の子供たちも私たちが学校へ行っている間に滑っているようでした。

 春になると沢山の花が原っぱに、湿地帯に乱れ咲き綺麗なものでした。
 又、此処は北緯50度線上にあり寒い地域です、日本で見る高山植物の花のように小さく可憐な花でした。

 5月になると黒龍江の真ん中あたりの氷が解け始め流氷を見るのが楽しみでした。河の氷は3日間ぐらいの轟音と共に流れてしまいます。轟音が聞こえると学校から一団となり見に行きました。
 遠足です、河岸に出て右の王粛公園を回って帰ってくるルート68年たった今も忘れていませんでした、余りにもの流氷と轟音が記憶を残していたのです。級友の名前も星君と佐々木くんしか覚えていません。

 


 黒河の街は向かい側のロシアの街と競り合って(ブラゴエスチェンスク)日本時代から碁盤目のように整備された道路に、そして中国の時代になっても競いながら町は発達して、河岸近くの繁華街には歩行者天国道路までできていました。

 街の商店には簡体字に並んでロシア文字が看板、道しるべになっており英語圏とは異なっていました。

 満人の子供達と学校帰り等で大声で怒鳴りあったり石を投げ合ったりしていた。
 でも、ボクは満人の子供が怒鳴ったりしている言葉もわかり日本人の子供たちが応戦している暴言もバカバカしくて、満人の子供たちに向かって大声で一緒に遊ばないかと云うとキョトンとして何度か大声でこっちへ来ないか(不来到?儿?)と呼びかけると、お前が来いよと、何度か言い返してボクが彼らの方に行くぞ(我去)と云うと10人近く相手が集まり、こちらは5人相手は大きなロスケもいた。
 


 日本人は鬼だ!日本人は出て行け!馬鹿野郎等々でした。

 (日本人是鬼!日本人出去!是混??西等等)

 ボクは石を投げるな(我?投石)と云いながら近かづくと、じろじろと眺めて中国語が上手だね(中文很棒)と云いにこにこしてるだけ、喧嘩する様子もない。
で、ボクは仲良く遊ぼうや(?系很好地玩)と云うと、分かったと、手を出したので握手をした。

 


  中国人の子供たちは仲良く遊ぼうと云いながら手を上げて日本人の子供達に向かって手を振り出した、お互いに手を振り喜んでいたようだった。


 それから学校帰りに一緒に原っぱで本を広げて見せたり、算数は足し算や掛け算を教えた。彼らは無学なのか毎日のように、ボクを待ち伏せして教科書を開いて教えろとせがんだ。ボクは得意になって教えたものです。満語が出来ない日本人の子供は算数を地べたに将棋盤の図柄を描いて手まね足まねして教えました。

 


  少し言葉が出来ると直ぐなかよしになれて、原っぱでキノコや林でキノコや木の実を採って食べたり楽しい思いをしたものです。その木の実が父を助けた。

 


  僕が学校へ上がる前まで満人しか友達がいない境遇で育ったおかげでした。それが、皮肉にも敗戦後の長春で役に立ち生きながらえたのかもしれません。

 


  黒河は1858年、清国と帝政ロシアの間に愛琿条約で黒龍江以北の地をロシアへ。

愛琿条約締結後ただちに黒龍江に流れ込むゼーヤ河の河口にブラゴエスチィエンスクの街を建設。これに対応して清国は対岸に黒河の街を建設した。これがロシア風であり中国としては美しい街になったそうです。しかしながら、愛琿条約締結前には3000人の中国人が一家皆殺しになったそうで、その記念館が愛琿地区に建設されました。ジオラマがありロシア軍が清国人一家を虐殺する動きは残酷そのものでした。

 中国各地にある日本軍が行ったと云われる各記念館も察しがつきます。

 満州国になって黒河~北安(350km)に鉄道を建設しましたが、日本の敗戦により、ソ連軍は満州にあった工業設備等あらゆる品物をこの鉄道で運搬したのち350kmのレールをも持ち去りました。このため、ソ連から逆送した日本人捕虜の病気や弱った者の内、黒河事件でも生き残った日本人は350kmを歩かされ、まだ体力のあるものは鶴岡炭鉱へ送られて重労働に、生き残った少数の日本人が昭和21年末に帰国しました。

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