第2話 塔(とうこく)虎城内(当時は大賚(だーらいじょう)城)又は(大賚郷)に住む
遊び 2
ニ、 パチンコ(ゴム鉄砲)
木の枝の適当なY字型のものを切って作るのだが杏(あんず)や棗(なつめ)の木を切ってしまい、満人に追っかけられて叱られ父が謝りに行った記憶があります。
満人は父に謝られると平身低頭して其の後はボクは威張って悪いことをしても叱られなくなりました。
父の日本人の威厳でしょうか、父は官服を着ないで協和服か便衣でしたが、満語は通訳の資格も持っており常に満人とは老若男女を問わず問いかけてお話をしており良い日本人の見本であり常に満人の苦情を聞いていたようです。
満人の子供たちもボクのあとにぞろぞろと付いてきて、おこぼれを貰うのと、空気銃が珍しくキョロキッョロしていました。
大賚街城内付近には雀が沢山生息しており人間にとって格好の食糧、すなわち、本物の「焼き鳥」です。日本で大量に消費されている「焼き鳥」は違います。
金沢へ帰った時にはまだ、雀・ツグミを捕獲して本当の焼き鳥を食べました。
とにかくボクは満語(中国語)、鮮語(朝鮮語)ともに子供の会話に不自由しなかったようです。そのため、ボーイを従えて満人や鮮人の子供たちと遊んだものです。
雀の毛をむしり取るのは苦手でした。雀を丸ごと茹でて、毛をむしり取り、金串に刺して七輪の炭火で焼くか、炊事の釜戸の中で焼くのです。骨が多く身が少ないけれど、頭を噛みつぶして、中にある脳みそを食べる珍味は忘れていません。
ホ、 河遊び (釣りや貝とり)
夏になると嫩江の河べりや埠頭で遊びました。嫩江にはジャンク(中国の帆船)、カイで漕ぐ漁船に乗ったりして遊びました。また船上で暮らす家族の子供たちとも遊びました。
日本から送ってもらった竹の釣り竿は大きな魚が掛り折れてしまい父は直して補強して大なまずを釣り上げては竿の手直しをしていました。
ボクたち子供は柳の木で作った竿で小さな鯰や鮒を釣っていました。魚は沢山棲んでいました。
水に入ると川べりの砂地では貝が採れました。それは黒い「からす貝」です。
大きなものは長さ30センチ程もありましたが、大きいのは硬くて食べられませんでした。満人は身を薄く刻んで乾燥して焼いて食べていました。酒の肴にしていたようです。
ボクたちは小さいのを採りました。母は貝の身を煮込んで食べさせてくれました。からす貝の採り方は、貝が水中で口をあけているのを見つけて、そっと、細い木の棒を差し込み貝が口を閉じた時に棒を引き上げて採るのです。
日本へ引き揚げた秋、父の実家、金沢市木越は河北潟に近く水路が縦横無尽に通っていました。晩のおかずに魚を釣ってこいと父に云われて小鮒を釣り、水路に見たことのある貝が口をあけているのを見つけて、ニンゴ(稲の穂の茎)を差し込んだらからす貝、5~7センチくらいの大きさ10個ほど持ち帰り美味しく食べ、
貝が採れたことを褒められたことを思い出しました。
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