2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ6

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

 ボーイの親が時々お菓子を持ってきてくれたり、餃子の作り方を教えてもらっていたのが母は楽しみだったそうです。その餃子の味は母亡き今も伝授されています。年に2回ほど孫たちが集まった時に作っています。






 満州は魚も野菜もでっかい

 父は家の裏に畑を作り日本から種を送ってもらいトマトやキュウリを作っていました。母の実家は種屋でしたので便利さもあったのでしょう、ボーイの家族にも上げていたそうです。
トマトやキュウリは大きくなりすぎて気持ちが悪いくらいだったと母は話していました。

 普通煮物にして食べるのですが小さいのを採って漬物にしても熟してなく硬くて食べられなかったそうです。

 嫩(ノン)江(コウ)で獲れた大きな鯰や鯉等が沢山売っていました。
日本でこんな大きなキュウリや鯰は見たことがありません、作物や魚はとにかく大きいです。

 日本の作物等は金魚鉢で育ったように小さいのです。

 人間も満州の北は大きいのです。蒙古族、満州族(清族)は北欧の人たちが大きいように黄色人種も北方の人間は大きいのでしょう。

 父は私やボーイ達を連れて釣りによく行きました。鯰が一番多く釣れ何時も鯰の照り焼きがご膳を賑やかにしてくれボーイ達が照り焼きを手伝っていました。

普通よく釣れるのは地元でギュウギュウ鯰と呼んで下ヒレがノコギリのようになっている直接下ヒレに触ると手を切られることがありました。30㎝ぐらいなので料理も照り焼きにも丁度いい大きさでした。

左の図は父が1m以上の大鯰を柳の木につかまり大格闘して釣り上げたイメージ図です。満人は大鯰の皮で靴を作りたいと云ったので上げました、身は肉にして持ってきたので近所に分けて照り焼きにして食べたことを覚えています。

 満人の家は2軒長屋で何かの商売をしていました。 鍛冶屋も豆腐屋も名物の海城焼餅(シャオビン)という、挽き肉や野菜を小麦粉の皮で包み、鉄板に油をしいて焼いたものを食べた覚えがあります。

当時満州時代、土塀は崩れた所が多かった、特に後ろの嫩(ノン)江(コウ)側が崩れ土塀は場内にもぐずれた場所もあり我が家の近くにも土塀はあり父はその壊れた土塀の近くの立ち木を利用してボーイ達と子どもたちのためにブランコを二つ作ってくれました。ボクの家に近い高い土塀も
くずれていました。
 近所の子供達が遊びに来た時、満人の子供は
遠慮しながら遠くから見てましたが父や母が呼び
込んでブランコ遊びをさせていまた。
 ボクの満語は此処で満人の子供たちと遊びながら
覚えたものです。しかし70年程の時間がたつと全部忘れてしまいました。字を書いて覚えた言葉でないためだと思います。

  嫩(ノン)江が消えていた2001年の旅で、大賚城門から150m程真っ直ぐ行くと壊れた土塀の向こうの大河、嫩江は消えて一面が、水田になっていました。地元の年寄りに聞くと政府が中央から青年隊を送って来て、河を松花江との合流地点から治水対策を行い水田にしたそうです。思えば埠頭の向こう側は湿地帯が続いていたようでした。

 河が無くなれば埠頭もなく、大賚城内は廃墟と化し少しの家屋と赤いレンガを残しているだけで土塀も取り壊されて、跡地は道路に変身していましたが、舗装もされていませんでした。
 高粱(こうりゃん)畑は見当たらなく玉蜀黍(とうもろこし)畑は懐かしい姿を残していました。

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