2013年11月27日水曜日

台風30号フイリピンのレティ島を直撃

     台風30号フイリピンのレティ島を直撃


台風30号がレティ島のタクロバン・カンキポット等聞きなれた地方が惨事になっています。はぁ!故小沢小善治さんのレティ戦の悲劇を色紙に描いのを紹介します。

 昭和41年に治安の悪い現地へフイリッピン軍と官憲に護衛されて取材したのです。

 小沢さんは満州国黒河省公省広報室勤務(満州国政府委任官)であり父は分室(暗号無線傍受、解読等)勤務であり緊密な関係にあり、戦後ソ連軍捕虜になり昭和36年に帰国してからも親密な交際を続けていましたが平成2091歳で靖国へ祀られました。


小沢さんは第一師団司令部が任地の山梨県出身です。

 旧満州国孫呉(そのあとに、第123師団が出来、昭和20814に父が入隊した)に有った第一師団は昭和19年8月に南方の戦況悪くフィリピンに移動命令が出され、

10月20日マッカーサー率いる米軍がレイテ島東部タクロバン近くの海岸に上陸したのにあわせ第1師団1万3千人の将兵が 11月1日西部オル モックに上陸した11月5日に東部と西部を結ぶリモン峠で戦闘に入った。


その第一師団で戦死した子息と

満州談話室でメル友となり、毎年

「関東喘息患者会の集い」の都度、「満遊
 
会」と称して孫呉・北安・黒河等に関係あ
 
る引き揚げ者がAIさん宅(30階室)で満
 
州を懐かしみと惨事を後世に伝え戦争の無
 
い世界を願う集まりをしています。
 
 
 
 
 
レティは太平洋戦争で世界最大の海戦に決定的な負け戦になった日本はレティ沖海戦で戦艦武蔵など3艦、空母4艦、巡洋艦9艦、駆逐艦6艦の他、輸送船等が全滅。
 
 

くしくも70年目に日本の海上自衛艦3艦がレティ湾に停泊し災害救援についた!

 (海上自衛隊諸君、御霊に祈ってきてくれ!!)

 
陸軍では制空権を米軍にとられ補給の無いまま40日間に渡り米軍を峠で阻止したがセブ島に約800名が転進し残りはレイテの土に 至ったセブ島にて8月15日まで抵抗を続けた停戦命令に従い米軍と停戦式を行い武装解除に至った。

 
 
 
 レイテ島の戦死者は他師団を含めると約8万人、多くが病死・餓死と思われる。
レイテ島には今でも第1師団の慰霊碑が二つを含め数十の慰霊碑が激戦地に点在する。
 
 
写真はリモン峠の第1師団慰霊碑です
慰霊碑は木造であり今回の台風で吹き飛ばされたと推定しています

最近は戦友はもちろんのこと遺児も高齢になり
巡拝の人数は減ったが未だに毎年巡拝団が訪島している。
 
日本の援助で作られた東洋一の火力発電所があるがヒ素などを含む排水が田畑に流れ込んだ可能性もある。

今回の台風30号の被害はタクロバン市近郊の被害しかまだ確認出来ていない。

此の色紙はあと6枚は私のホームページに掲載しました。
k-amur.boy.jp    「黒河にまつわるエッセイ」の レティ痛恨の画集




 


2013年11月7日木曜日

ボクの満州生活あれこれ 3

街頭の歯医者と散髪屋 3 
   
   私は過去に「阿片関連」に沢山お世話になったのかもしれません。
一つは 咳の「呼吸沈静作用」です 。もう一つは腰の痛みの「鎮痛作用」と手術時の「鎮痛・麻酔作用」で大変お世話になって今日生き伸びたのでしょう。阿片そのものではなく、その有効成分モルヒネが現在使用されている薬です。
  


 阿片ってどんな天国へ入った陶酔感を得ることが出来るのでしょうか。
 

 阿片は、「阿片パイプ」と呼ばれる道具を使って喫煙します。当時のパイプの多くは翡翠(ひすい)で作られており、練り香のように丸めてじりじりと熱し、その立ちのぼる煙を一気に吸います。うまくいけば極上の陶酔感を得ることができるそうです。
 

これらが麻薬たるゆえんです。阿片を吸うことは、身体を一時的にリラックスさせる 
最高の薬だそうです。
しかし阿片は一度吸引するとタバコより離脱することが困難な魔法の薬です。

※ 阿片窟とは阿片の 売買 および吸引の場所を提供する 店 。
アヘンを常用すると体が衰え、自らアヘンを調達し吸うことすらできなくなるため、店員がそれをサポートしたりする場所です(1945年8月以前の満州、日本では禁止)。
    

 現在のテレビや新聞で大きく報道されている脱法ハーブ店の事でしょう。
※ 大観園とは「紅楼夢」のなかに出てくる歓楽街の名にちなんで大観園と命名された(ハルビンでは)この魔窟には、安女郎屋や阿片窟が密集し、人間の本能をそそのかすように、獣姦や屍姦さえ自由だったそうです。また毎朝のように道路に骨と皮だけになった死体や傷だらけの死体が捨てられてあったそうです。

  旧満州ハルビンの大観園は満州国の時代に、黒龍江省ハルビン市内を 流れる松花江沿岸にあった大観園という歓楽街 でした。資産も定職もない食いつめた下層 の庶民や犯罪者が流れ着いた社会の吹き溜まりのような場所であり大観園はかつて満州一の歓楽街、というよりは満州最大の魔窟だったそうです。

 大観園に一度まぎれこんだら絶対に生きて戻れない、といわれ、女子供はもちろん、大の男でも恐ろしくて近づくことさえできないところだったそうです。
 阿片にまつわるもう一つの大きな事が、「阿片戦争(1840~1842)」西洋の弱肉教食を象徴する戦争でした。
 

 植民地政策が常識のこの時代、中国の茶に注目したイギリスは、代金の支払いに、インドで作られたアヘン(麻薬)を中国に売って銀を買い、その銀で茶を購入した。清はこれに怒り、イギリス商人からアヘンを没収したが、イギリスの武力の前には屈伏するしかなく、屈辱的な南京条約(香港100年の無償借り上げ等)という不平等条約を結ばされることとなったのです。
 

 「香港」が中国に返還されたのは数年前(1997年)のことでした。
 アヘン戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、日本の幕府は、大きな衝撃を受けた。
 

 以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的意味を理解し、危機感を募らせた。そして開国を迫られていた中で阿片は禁制品として国内への影響を最小限に抑えられたと云われています。
 

 しかしその後、外国を植民地化する、後出しジャンケンのように、中国侵略時には阿片を活用して軍資金を捻出した。共産軍・国府軍とて同じであったらしい。

 それは日中戦争、満州国の建設です。その落し子が阿片窟であり、その最たるはハルビンの傳家甸(フジャンデェン)と云う地に於いて「大観園」が出来て漢民族の縮図を見ることが出来ハルビン独特の悪どい呼吸が囁かれていたそうです。
 

 日本は阿片にたいして刑法が甘く死刑にはならないが、昨年中国で2人の日本人が死刑判決出された。11月に「のり?」
と云う女優が復帰する、報道があったが如何なことか私だけの意見でしょうか?

 小説「赤い月」 著者 なかにし れいの父(お父さん)が病気になりそれを苦に阿片窟へ入り、抜け出られなくなり友人が大変な努力で助けた文章があります。一読に値します。(満州敗戦直後のハルビン)阿片戦争の教訓を忘れないように。

ボクの満州の生活あれこれ 2

  
 もう一つは街頭の散髪屋

  満州の昭和15年頃、大賚(現大安)で父と散歩している時父が、おとうさんは散髪をするから待っていて!と云って街頭の散髪屋の椅子に座った、



 

木材で作ってあったが背もたれになっていた椅子でした。 
 父は満語(中国語)通訳資格を持っており散髪屋とおしゃべりをして色んな情報収集をしたかったのでしよう。父は満州国警察官で暗号無線通信士でした。
 父が散髪をしている隣には歯医者が薄汚れた布を敷いた台にヤットコの大、小・ペンチ・ヤスリ等怖い道具を並べていました。
 付近には万頭屋・チェンビン(煎餅)屋・水茶屋・玉蜀黍(トウキビ)屋・ソーセージ屋等が並んでいたようでした。
 父の散髪を待っている間にチェンビンに大好きな豚肉を沢山いれたのを作ってもらい食べていました。美味しかった。


 昨年黒河へ行った時にも粟を粉にしたのに水を入れてかき回して熱く熱した鉄板の上で直径20センチ程の丸い円形にして引き延ばし、その上に具を入れて巻いて食べるのです。丁度、お寿司の太巻ぐらいの大きさで、初めは熱くて、冷ましてから食べるのです。具は豚肉の細切り、ニラ、味付けした味噌でした。
 日本の風景に例えるとお好みやが鉄板の上でへらを使って食材を丸く焼いている光景です。

※  看板にある補牙とは入歯の意味虫歯を
引っこ抜くのでは。表看板に麗々しく西洋流
と書いてあるけれども道具が如何にも支那式
である。
 









※ 色んな種類のヤットコが
並べてあった、怖かった


父が散髪している隣が歯医者さん、お客さんが椅子を倒して口で何かを食べていたチュウインガムを噛むように。散髪屋と同じ白い服だが、煮しめたように汚れていたのを思いだした。
 やがて何かを噛んでいた人の口から噛んでいたものを取り出した。
 今度は煮しめたような布で目隠しをした、次は口を大きく開けさせヤットコを口の中に入れて歯を掴んで抜いているようだが身体も持ち上がるが、なかなか、抜けない痛いよー(トン)、痛いよー(トン)と聞こえた。今度は近くにいた人に身体を抑えさせて、一気に抜き取ってしまった。
 歯をぬかれた人の身体はだらりとなっていた。口からは血が少しあふれ出ていた、そして口を開いて黒い布切れに何か液体を浸みこませて噛ませました。    

※河北省古北口(万里の長城の街)右が母に抱かれたボク(清衛)芥子の花畑。昭和十二年です。
 
 
 

※ 芥子の実
 
※ 芥子の花
 
 
 
 阿片を鎮痛剤として使ったらしいのです。当時満州では阿片が多く栽培されており、関東軍の資金源になっていたそうです。満州の都市と名のつく街には、阿片窟(阿片を吸引場所)があり、それの最も有名なのがハルビンの「大観園」でした。その場所には日本の警察、軍人も入れなかった「阿片窟」の最たるもので売春宿あり、歓楽街ありは地獄だったそうです。

   
 街頭の歯師は芥子の実の生から出る白い汁を煮出したか、実から出た白い汁をそのまま布に浸みこませて鎮痛・麻酔薬として使用したものと思われます。
 

 私が初めて喘息になったとき、弟を朝早く起こして病院へ連れて行ってくれと頼んだが丁度日曜日、新聞の当番医は遠かったが連れて行ってもらった、早朝のため弟が扉を叩き医者を起こした。医者は診察をして看護婦に「モヒ」と云ったようだ、そして皮下注射をした。息苦しさは、嘘のように治ってしまった。
 

 医者は大きな病院で精密検査をしなさいとアドバイスをしてくれた。
 10日程したある日また息苦しく咳が止まらなくなり大きな病院へ行ったら「喘息」だねと云われたがどんな病気か知りませんでした。34歳の秋でした。
 

 「モヒ」とは阿片から作ることは知っていましたが国が禁止する悪い物質でありどれほど悪いのかは知りませんでした。
 

 ※ 阿片は芥子の実から精製します。それには鎮痛・麻酔薬のモルヒネの他に、呼吸鎮静作用、筋弛緩作用、鎮痛作用など、約40種類の成分が含まれると言います。モルヒネは、天然の芥子の実からしか精製できません。 阿片(ヘロイン)を使用するとどうなるか ケシの薬効成分であるアヘンアルカロイドは、強い抑制効果を持ちます。特に精神的な部分に強く作用し、服用者はあらゆる抑圧から解放されます。不安、欲望といった感情がコントロールされ極上の陶酔感を得ることができ身も心も空中に浮きこの世の極楽を味わえるが習慣になりやすく身を滅ぼしてしまいます。

ボクの満州生活あれこれ 1


街頭の歯医者と散髪屋 1 

喜寿になった途端に、あちこちの身体が傷んできました。最近歯がぼろぼろと欠け落ちて、根気よく治療しても痛くてダメな歯で根っこが割れているから抜き取られました。そして代替えの歯を取り付けることにしました。

 抜歯の時、目隠しをしますよ!宜しいですかと云われた時に何を思ったか。

二つの情景が脳裏をかすめました。

一つは銃殺刑で射殺する情景。映画にもよく出てくるが、満州では日本の軍隊の駐屯地近くに銃殺刑にするために2メートルぐらいの棒、銃殺刑にする人間を縛り付けた柱です。

銃殺時には何か云う事はないか目隠しをするぞと云って布切れで目隠しをしてたばこを一服吸わせてから銃殺隊が一斉射撃を・・・。

今日本では銃殺刑はありません、が満州で敗戦時にあちこちで見ました。

中国で少し前までは、公開銃殺をする前に死刑囚をトラックの荷台に乗せ、氏名と罪状と刑罰を書いたプラカードを首から下げ、拡声器でアナウンスしながら市中を巡回して人目にさらすということを普通にやっていました。
 死刑執行を見物したい人々が、刑場までガヤガヤと後についていきました。その人々の目の前で公開銃殺をしていました。その人たちは人民裁判にかけられた中国人や日本人でした。 

見物人はその後ろを走って追いかけて行きました。特に、子供は大喜びでついて行って行きました。(テレビ映画で「大地の子」の映像にもありました。)
 死刑執行の現場は大変な人だかりとなり。後ろの人は良く見えないので、見物人どうしで喧嘩もしていました。大衆にとっては、娯楽のひとつなのかも知れなかったのかもしれません。ボクも浮浪児をしているとき仲間と見に行きましたがあまりにも大勢の人のために見えなく、銃声だけが沢山響き渡っていました。

今は中国にも公開銃殺はないそうです。ただ銃殺刑はあるそうです。日本は,絞首刑(ロープで首を縛り足元を外す)です。アメリカは注射刑と電気刑?