2014年9月5日金曜日

ボクの満州の生活あれこれ 18





猪は沢山食べたらしい、ボクは猪年で何かにつけ、からかわれたそうです。
 満州でも豚と混同されたのが、猪です。野生の豚ですからね。
 豚は汚いが食べれば美味しく、それは人間のうんこを食べるからだと。
 猪は野生だからうんこは食べないから硬いのだとか。

 豚を沢山飼育出来ることはお金持ちの明かしとして満州では豚の置物、調度品をよく
見かけました。当時満州の豚は黒色でした、
しかし今は白豚がほとんどだ、そうです。
一昨年長春で見た豚はブチでした。
 ボク達の住んでいる森林警察隊本部近くには
大人も子供も色んな自然の楽しみがあったよう
です。
 食べ物の豊富なこと、山は山菜と動物、川は魚です。当時の日本と違って本当に人の手が入らない自然ですから魚も、動物も人間を知らないので捕獲は簡単でした。
 


 雉の手づかみは少し雪の積もった夕方、道路をトラックで行くと道路付近に居た雉がビックリして走り出して、雪に頭を突っ込んで「頭かくして尻かくさず」の姿になり子供でも手づかみ出来たものです。ただし、雉の羽は羽ばたく力が強く父たちは満人から、胴体を掴むなと云われたそうです。
 胴体を掴んで脇腹に抱えると雉の羽ばたきで腕の肘か肩が抜ける事があるからだそうです。掴む時は首を掴んで捻ってしまうか?足を掴んで裏返して首を捻り殺してしまう方法だそうです。
 左の写真は夏でしょう。
夏は夕方のみ手づかみが出来たそうですが、冬雪が少しあれば誰でも手づかみは出来たそうです、餌も少なく雉自体の身体も弱っていたからでしょう。




ノロ、日本ではノロ鹿と呼んでいるそうです。ノロの肉は常時食べさせられました。一般的に野生動物の肉は夏は食べるのが嫌だったそうです。
 それは、皮と肉の間にうじ虫が居るからです。特にノロには寄生していたそうです。ノロ肉は一番美味しく食べられたがうじ虫が皮と肉の間におり母もちゅうちょうしたそうです。
 ノロ鹿の角は調度品として、父も刀掛けに使っていました。父は短剣と日本刀を床の間にノロ角で作った刀掛けに掛けて毎晩刀を磨いていました。
 その刀を役たてることなく、8月18日の切り込み隊は中止になり、ソ連軍に武装解除され降伏したそうです。大切な大切な刀も初めて戦争
に負けて世の中が真っ逆さまになり悔しくて
豪の中に埋め込んでしまったそうです。




 夏には川で魚を釣ったり採ったりするが、釣りは入れ食いのごとく釣れるので父は面白くないと云っていたが、ハヤ(うぐい)ばかり小骨があり、食べにくかったらしいです。
 時々ダイナマイトに火を付けて川へ投げ込み爆発して水柱が上がると一斉に川へ飛び込んで魚を手づかみするのは、日・満・鮮人が一緒になっての魚掴みは楽しかったのを覚えています。
 針金と手拭いで網を作ってくる人。木の枝で大きな魚すくいのソウケを作り自慢げにしてる人。頭に被る傘の隙間を大きくしたもの。帽子そのもので魚を救っていました。
 魚は死んではいないのです、爆発の水圧のショックで一時的に浮いてくるのです、時間がたつと、泳いで逃げてしまいます。
 父はダイナマイトに火を付けて魚の居そうな場所へ投げるのと号令を掛けるのが仕事でした。
 タバコの火で雷管に火を付けていたので間違ってタバコを投げると危険きわまりなかったそうです。
 魚は大半がハヤでしたが、大きなイワナや鯰も採れていました。




ボクの満州の生活あれこれ17









昭和13年 4月 (康徳5年)熱河省古北口から、満州国間島省汪清縣天橋嶺森林警察隊へ転勤発令、今度は森林警察隊とは?
 またまた、田舎へとは?匪賊・馬賊が横行している危険地帯だったそうです。


(牡丹江-長春)列車情報
によると、牡丹江から3時間。長春から4時間の山岳地帯に天橋嶺駅はありました。
通常の旅行者
のルートでないそうです。




14年 9月11日(天橋嶺森林警察隊官舎)
次男 清介が誕生しました。
 


 15年 4月 満州国間島省汪清縣張(ちょう)家店(かてん)森林警察隊へ転勤。
大変な山岳地帯で狼・虎・熊等の猛獣やその他あらゆる動物が生息しており匪賊・馬賊の討伐より猛獣から身を守る方が大変だったそうです。



  天橋嶺駅から張家店へは森林鉄道が木材運搬の為に敷設されていました。現在もその森林鉄道は運行されていると聞いています、是非行ってみたいと思いますが?思いがかなう日が来るでしょうか!記憶は微かにあります。
 アメリカの西部劇映画にそっくりな家屋構造が
目に浮かびます。
 材木で囲みこんだ砦であり、周りは全て木材です。門も大きくトラックが中庭に入れる大きさでした。


 門の前には幅一間程の深い川があり水が何時も流れており父母からは、門を出るときには真ん中を歩きなさいと注意をされていた覚えがあります・



森林警察隊本部は川の淵の岩場の一角に建ててあり河からの敵の侵入は岩場を登る必要があり、防備としては当時は最適だったのでしょう。




 私達日本人家族は三家族だったらしいですが砦の中に住居があり、役所と続いていました。
 父は廊下伝いに役所に出向き常時無線機の前にいたようです。砦の中庭には馬が繋がれており、時々父や満人に乗せてもらいました。



父の執務状況はよく見ました。電鍵を左右に
                                      おいて、両耳をレシーバーにあてて、押さえながら
                                     電文を聞きメモしていました。生分か暗号文かは
                                    知りません、黒河では全てが暗号文でしたと!


 材木の産地の森林鉄道です、珍しかったそう
です。ジーゼル機関車は!









ボクは何時も鮮人の子供達や満人の子供達と遊んでおり、家に帰った時だけ日本語を話す生活が続いたそうです。それが敗戦後、とても役に立ち残留孤児にならなかった原因の一つです。






  森林地帯です、狩猟には事欠きまん。まず、赴任して最初の狩猟案内は


クマ狩りだったそうです。熊の皮は冬、暖かく寒い満州ではとても重宝
がられており、満人達が連れて行ってくれたそうです。
熊の皮はなめして、ボクに。熊の肝は彼ら満人が漢方薬として持ち帰ったそうです。
 のちに、干した肝を少し貰ったそうです。胃薬に大変効くそうです。




2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ16

最北の黒河街 も日本にも大きく係わりがありました。

  • 璦琿記念館ラジオラマは価値あり







                    璦琿条約前は)沿海州も
                  樺太もその北も中国のもの                                             

    璦琿条約は、ロシア帝国と中国の清が、1858年5月28日に中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約です。

条約によって、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。

これに対抗するべく、清国は、その対岸に国境警備軍司令部を置き、さらなる南下をもくろむロシアをけん制しました。

  
 これが黒河市の最初です。黒河事件の一つです。

 25000人が戦死、3000人が虐殺だったそうです。

  

  もう一つの黒河事件は日本人が中共軍に虐殺されたものです。
 1946年にソ連は身体の弱った日本軍捕虜を黒河に逆送した、最低でも1200名以上、一説には3000名程がブラゴエスチェンスクから黒河へ逆送され半数程が名前も分らず死んでゆき、600名程残った捕虜は1946年6月21日に脱走したのが事件の始まり。

 

 その当時、国民党(光復軍)と中共軍(八路軍「林彪」)の内乱に巻き込まれ、脱走を図った日本軍捕虜500人以上が中共軍に虐殺された。

 

 針金で数珠繋ぎのまま日本刀で突かれ黒龍江に放り込まれた人は80人はいるという。日本へ帰った人達は125名だそうです。病人が多く将校以上は処刑されて、氏名の記録等も少なく実際の人員把握が出来ていないということです。

 


 曖揮条約頃から日本人も黒河奥地の黒河省呼瑪県金山鎮付近で砂金が多く発見されていたことか、大正3年シベリア出兵当時はロシア人が多く入り大量の砂金を採集していた、日本は満州採金会社が独占事業として採掘した。
 

 日本人(200名程)が大金を稼ぎ、それに就いてきた娘子軍(慰安婦・女郎)もおり最後にここに集まり、ロシア人、満人相手に春を売りこの地に死したそうです。

 近くには苔むした小さな墓有りとのこと。彼女たちを「からゆきさん」と呼んでいたそうです。

 

 からゆきさんの一人と思われる日本女性は張作霖と関係ある孫花亭と仲良くなった「お菊」と呼ばれていました。日本軍の行動様式の知識もあり馬賊の頭目である孫花亭の右腕となり配下から慕われる存在になりました。


 「満州お菊」の名前は全満州の馬賊に知れ渡り馬賊間の縄張り争いをよく仲裁し、彼女が発行した通行手形は信頼されていました。

 

 当時は日本から馬賊になった有名人は伊達準之助などが有名です。日本で生きる術を持たない人たちが、大陸に目を向け「狭い日本にゃ住み飽きた」と、馬賊に憧れて大陸に憧れて渡った者も少なからずいました。

 







   辛亥革命による清朝崩壊、第一次大戦勃発。お菊は孫花亭と共に大満州の広野を駈けていたのです。

 そのお菊が大正5年頃から黒河の黒龍江の向かい側の地、ブラゴベシチェンスクに
「オーロラ宮」と云うバーを開いたのです。一説にはロシア革命前夜であり、密命を日本軍から受けていたとも言われています。しかしお菊はソ連領から出る機会を逸し、アムール河の河口の町ニコラエフスクにて孫花亭に看取られながら40年の波乱万丈の生涯を閉じたのです。からゆきさんと呼ばれた日本人女性が活躍していたとは今、誇らしくさえ思えます。

 
                      昭和20年当時のボクが通ってた
                          在満黒河国民学校


 当時(1945年)在満黒河国民学校4年生、日ソ不可侵条約を破棄したスターリン率いるソ連軍は独ソ戦に勝利した勢いで満州に侵攻して、日本のシベリア出兵と日露戦争の報復をしたい放題にして、臨時招集された日本兵60万人をソ連へ連れ去り6万人の死者が生じ、在留邦人約27万人を死亡させた惨劇は日本民族として許しがたいものです。いまだに野ざらしのままの遺体はもう中国の土になったでしょうか、当時生きていた私は決して忘れはしません。もう旧満州に行く体力もなくなりました。下記の写真も実存していません大地の土になった君たちにお祈りをして黒河からお別れします。








ボクの満州生活あれこれ15

 冬は毎日学校の授業が終わるとスケート三昧、女子はフィギャースケート靴、男子の高学年はロングスケート、低学年はショートスケート刃で靴の長さと同じくらいの刃の長さです。
 


 教室の後ろにスケート刃砥ぎ台が2台置いてあり、休み時間になると先を争って砥ぎ台でスケート刃を砥いでいたものです。


 学校へ行く時は戦車壕が川になっており滑りながら学校へ行くことも楽しみなものでした。
  近くの満人の子供たちも私たちが学校へ行っている間に滑っているようでした。

 春になると沢山の花が原っぱに、湿地帯に乱れ咲き綺麗なものでした。
 又、此処は北緯50度線上にあり寒い地域です、日本で見る高山植物の花のように小さく可憐な花でした。

 5月になると黒龍江の真ん中あたりの氷が解け始め流氷を見るのが楽しみでした。河の氷は3日間ぐらいの轟音と共に流れてしまいます。轟音が聞こえると学校から一団となり見に行きました。
 遠足です、河岸に出て右の王粛公園を回って帰ってくるルート68年たった今も忘れていませんでした、余りにもの流氷と轟音が記憶を残していたのです。級友の名前も星君と佐々木くんしか覚えていません。

 


 黒河の街は向かい側のロシアの街と競り合って(ブラゴエスチェンスク)日本時代から碁盤目のように整備された道路に、そして中国の時代になっても競いながら町は発達して、河岸近くの繁華街には歩行者天国道路までできていました。

 街の商店には簡体字に並んでロシア文字が看板、道しるべになっており英語圏とは異なっていました。

 満人の子供達と学校帰り等で大声で怒鳴りあったり石を投げ合ったりしていた。
 でも、ボクは満人の子供が怒鳴ったりしている言葉もわかり日本人の子供たちが応戦している暴言もバカバカしくて、満人の子供たちに向かって大声で一緒に遊ばないかと云うとキョトンとして何度か大声でこっちへ来ないか(不来到?儿?)と呼びかけると、お前が来いよと、何度か言い返してボクが彼らの方に行くぞ(我去)と云うと10人近く相手が集まり、こちらは5人相手は大きなロスケもいた。
 


 日本人は鬼だ!日本人は出て行け!馬鹿野郎等々でした。

 (日本人是鬼!日本人出去!是混??西等等)

 ボクは石を投げるな(我?投石)と云いながら近かづくと、じろじろと眺めて中国語が上手だね(中文很棒)と云いにこにこしてるだけ、喧嘩する様子もない。
で、ボクは仲良く遊ぼうや(?系很好地玩)と云うと、分かったと、手を出したので握手をした。

 


  中国人の子供たちは仲良く遊ぼうと云いながら手を上げて日本人の子供達に向かって手を振り出した、お互いに手を振り喜んでいたようだった。


 それから学校帰りに一緒に原っぱで本を広げて見せたり、算数は足し算や掛け算を教えた。彼らは無学なのか毎日のように、ボクを待ち伏せして教科書を開いて教えろとせがんだ。ボクは得意になって教えたものです。満語が出来ない日本人の子供は算数を地べたに将棋盤の図柄を描いて手まね足まねして教えました。

 


  少し言葉が出来ると直ぐなかよしになれて、原っぱでキノコや林でキノコや木の実を採って食べたり楽しい思いをしたものです。その木の実が父を助けた。

 


  僕が学校へ上がる前まで満人しか友達がいない境遇で育ったおかげでした。それが、皮肉にも敗戦後の長春で役に立ち生きながらえたのかもしれません。

 


  黒河は1858年、清国と帝政ロシアの間に愛琿条約で黒龍江以北の地をロシアへ。

愛琿条約締結後ただちに黒龍江に流れ込むゼーヤ河の河口にブラゴエスチィエンスクの街を建設。これに対応して清国は対岸に黒河の街を建設した。これがロシア風であり中国としては美しい街になったそうです。しかしながら、愛琿条約締結前には3000人の中国人が一家皆殺しになったそうで、その記念館が愛琿地区に建設されました。ジオラマがありロシア軍が清国人一家を虐殺する動きは残酷そのものでした。

 中国各地にある日本軍が行ったと云われる各記念館も察しがつきます。

 満州国になって黒河~北安(350km)に鉄道を建設しましたが、日本の敗戦により、ソ連軍は満州にあった工業設備等あらゆる品物をこの鉄道で運搬したのち350kmのレールをも持ち去りました。このため、ソ連から逆送した日本人捕虜の病気や弱った者の内、黒河事件でも生き残った日本人は350kmを歩かされ、まだ体力のあるものは鶴岡炭鉱へ送られて重労働に、生き残った少数の日本人が昭和21年末に帰国しました。

ボクの満州生活あれこれ14

 昭和18年12月初旬(1943年)(康徳10年満州国の年号)黒河街の高台にある黒河省公省官舎、南崗屯第155号でした。三軒長屋の真ん中でした。






 官舎は小高い丘にあり黒龍江が見え向側の街ブラゴブェスチェンスクまで見えて河は白く氷っていました。

 官舎の付近は薄く雪が積もり一面真っ白な平原でした。

ボクはこれくらまで滑れられるようになっていました。

ボクの満州生活あれこれ13

斉斉哈爾(チチハル)では何故か旅館住まいでした。






旅館は裏道りで近くには満人の家が立ち並び、本当に満州臭い場所だったと記憶していますが、学校へはどう、行ったか覚えていません。
それは昭和18年秋で、国民学校2年生でした。旅館のボーイが宮前国民学校前まで毎朝送ってくれました。帰りは自分一人で帰ったつもりです。

 母は旅館生活は楽で、転勤のため梱包した、柳行李、布団袋、リンゴ箱の台所用品等は一切開かずそのまま旅館に置いてあったそうです。

 冬が近かずきボーイを連れて、衣服はシューバー(皮の外套)を初めとして全て極寒の黒河のための買い物を楽しんだそうです。チチハルは大都会であり全ての日用品は揃っていたそうです。

 父は情報機関員(スパイ)のための研修を受けていたらたらしくたった3か月間のチチハル滞在でした。

 12月に父の転勤命令が出ました。黒河警務庁無電室勤務、待遇は警佐です。刀吊は青色から赤色になっっって、位が上がり喜んでいました。階級は警佐です。

 当時の階級位では警察署長ぐらいでした。

満州当時   警士・警長・警尉補・警尉・警佐・警正。
日本の現在   巡査・巡査長・警部補・警部・警視。

 しかし黒河では帯刀も制服を着ることも許されず身分も同僚や日本人にも明かすことなく、黒河省公省事務官を名乗っていました。
 
 第4話  黒河(こっか)

 昭和18年12月初め父の転勤で黒河への途中富裕県の亜州白山郷開拓団に立ち寄り父の郷里、金沢市木越町の方々に逢うために富裕駅で列車を下りて一晩泊まり2家族を呼び歓談したそうですが、私は汚い満人の宿屋しか記憶してません。父は日本へ帰ってから消息を調べたそうですが誰も帰っていないとの話は母から聞きました。

 図書館で調べました。北さん家族は8人でした。一人だけ日本へ帰っていました。7人は白山郷開拓団の悲劇により昭和20年8月27日に死亡です。どんな死に方をしたか一人一人が異なる死に方をしているでしょう。もう一方Kさんの夫は応召でソ連へ抑留、故郷に帰っても奥さんは帰っていませんでした。著書「8月27日」に生き残った人の叫びが記されています。

 こんなことを調べていると私は幸せな方です、弟妹3人だけの犠牲、一家全滅だったら、この世に生きていた明かしも無く人間を終えていたことでしょう。

 満州での出生届は在満州国全権大使に届け出することになっており、ソ連軍進駐により、関東軍は書類全てを焼却又は廃棄しており、たとえ存在していてもソ連軍は書類、紙切れ一枚も日本国への持ち込みは禁止していました。

 そのため、満州で生まれて死んだ子供たちはこの世に生を受けた証拠がありません。
また家族全員全滅した人、単身で満州で行方不明になった人は遺骨が何処にあるかもわかりません、そんな人たちの調査は全く行われていません。

 私の弟妹3人も日本に出生届はありませんでした。父は市役所で強引に出生届と死亡届を提出したそうです。

 市役所は満州で生まれて死んだ人の証拠も無いのに初めは届け出を拒んだそうです。戦後の北満州の混乱を知らない役人、役人は何でも証明するものを出せ、と云います。 もっと生きている人間を信じて物事を処理してほしいものです。 

 最近私は兄弟も満州で死んだが入籍ができず、お墓だけに名前を記した人を2名知りました。市役所は証拠を出せと云ったそうです。戦争に負けた日本は満州からは紙切れ一枚持ってこれなかったのです、見つかれば引き揚げ者グループの一団に迷惑をかけて引き揚げ中止と脅かされていたからです。

 チチハルから北安、経由、黒河への車窓風景は平成5年(1993年)は昔の面影があるものでした。鉄路の沿線は湿地が多く耕作地は少なく、人家もなく荒涼な半湿原地帯でした。
でも現在は湿地が水田になっているそうです。

 戦前黒河駅は街はずれの原っぱの中にありました。
2011年9月黒河駅はネオン輝く立派な建物でした。駅前もネオンが輝き戦前の面影は全くありませんでした。

ボクの満州生活あれこれ12

第3話  斉斉哈爾(チチハル)








 昭和19年7月父の転勤でチチハルヘ私はチチハル在満宮前国民学校へ、チチハルには3か月しか在学せず思い出はとても少ない。

 7月3年の2学期から通った、とてつもなく大きな学校に見えた。3年生は幾クラスあったかも覚えていない。校舎は子のコの字型で中庭がスケート場で綺麗な氷が張られており上手な生徒は中庭のリンクで、下手な生徒は校舎の裏側にリンクがたしか3つ、あったと思う。ボクは上手だったので、スケート専門の先生が教えてくれたような気がします。

 スケートは誰にも負けない自信がつきました。

学校の授業は一つも覚えていません。

 斉斉哈爾は黒竜江省西部の市。省都ハルビンの北西270キロメートル、嫩江(のんこう)の中流
域に位置しており、今は哈爾浜から列車で3時間半ほどで行けます。

 チチハル近郊には丹頂鶴が生息している大湿原地帯(ジャロン自然保護区があり、鶴城とも呼ばれている)があり夏には緑一杯の湿原に丹頂鶴が沢山います。冬になるとこの鶴達は北海道の釧路湿原にほとんどが飛来しますが時々金沢でも雪原に立っている丹頂鶴を優雅に美しく観察出来ます。

 2003年8月4日、旧関東軍が遺留したとされた化学兵器が漏出して市民44人が重軽傷を負い、うち1人が死亡する事件が発生、自衛隊の化学兵器処理班がチチハルに派遣された。この事件により中国の反日感情が高まった時期がある。

 1945年以前には石川県から亜州白山郷開拓団(鳥越村)がチチハルから30km程北の富裕県に入植していたが、敗戦により大惨劇がありました。団員350名ぐらいが無くなり生きて日本へ帰った人は60人程でした。

 書名, 8月27日 旧満州国 白山郷開拓団. 著(訳)者, 財団法人石川県教育文化財団. 発行社(者), 財団法人石川県教育文化財団 理事長 重田重守に生々しく生き残った人たちが証言しています。是非後世の為に読んで下さい。当時もっと悲惨な事件は葛根廟事件(ソ連軍の機銃で1000人以上が犠牲)、瑞穂村開拓団事件等沢山あります。

 石川県から満州へ開拓団として入植した人は約7000人程、死んだか不明の人は約3000人程です。これは石川県満豪開拓史に記されています、なお詳しくは石川県の各市町村別に記されており、各人の逃避行の苦難の行程も書かれています。

 各都道府県にも満豪開拓団史等があり詳細に記録されています。
 各図書館で見ることができます。
 日本人ならば是非見て読んで頂きたいものです。

 満州には926の開拓団と開拓義勇軍251が入植しており、死者数は約10万人です。

※今年長野県阿智村に4月25日開館した満蒙開拓平和記念館は歴史を残す一つです。
※ 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所史跡に水戸市内原郷土史義勇軍資料館があります。
※ 軍人には各都道府県に郷友会館があります。

以上には各都道府県ごとに資料が作られており当時のおおよその事態は分かります。

 一般の引き揚げ者は各都道府県の援護担当に引き揚げ証明書があるのみです。あるのは「赤い月」なかにし れい著、「流れる星は生きている」藤原 てい著等と、名も無き一般の引き揚げ者の著書も沢山ありますが、図書館では満州の悲劇の本を検索することが出来ません。「大地の子」山崎 豊子原作のテレビドラマは開拓団の悲劇を日本人に伝えられました。

 今、私はホームページ「k-アムールボーイ」の中で悲劇の図書館の逃避行・集団疎開で敗戦時の満州の日本人がソ連軍に攻撃され、虐殺、銃殺、強姦、自決、親が子を・・・等の本を名も無き引き揚げ者が書いた著書を検索照会しています。100冊以上あります。是非読みたいと思う本がありましたら、皆さんの近くの図書館から借りてお読みになって下さい。