2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ5

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

 高い土塀に囲まれた城内は約200m四方で城門は煉瓦で見張り台の名残があった。土塀は嫩(ノン)江(コウ)側が多く崩れていた。



城内は。

① 塔虎城門砦門扉も無く出入りは自由だった。
② 土塀には煉瓦はなく泥で出来ていた。高さは7mほど。
③ 右側は満人住宅地区で商店もあった。
④ 左側は日本人居住地区で中は日本式。
⑤ 大賚(ダイライ)在満国民学校
⑥ 大賚省公省、父は警務庁の警察官で無線通信技師でしたが官服でなく協和服を着ていた。
でも時々サーベルは帯刀していた。
⑦ 大賚埠頭はジャンクも接岸し穀物特に大豆、玉蜀黍、高粱等を運搬していた。
⑧ 嫩(ノン)江(コウ)で魚を獲る漁師の漁港でもあった。

此処で松花江と合流して最後は黒龍江(アムール)となっている。満州時代は城壁の裏は嫩(ノン)江(コウ)でありジャンクも行きかい河川港だったが今は見渡す限り田圃になっていました。

昔清朝時代は塔虎城も満州族が住み就いて一つの郷又は鎮を成していた。

 満州族は郷を使い、蒙古族は旗を使い集落の単位として豪族の住居だったようです。

 此処の住居環境はとても良く、土塀で囲まれており満人住宅地区には色んな店があり日本人も生活には不自由はなかったようです。土塀に囲まれており安全も保たれていたそうです。満人と同じ囲いの中に住んでいたのですから安全です。
 
 住所は「満州国龍江省大賚街胡周縣公署官舎第17号」でした。(H22年、長春から高速で約3時間)

部屋は2間で寝室兼座敷には小さな床の間もあり畳10畳くらいかな?床の間には父が射止めた鹿の角で明かりは電燈、ペチカが居間と共同でした。居間はオンドルとペチカです。

 燃料は石炭、ペチカとオンドル、炊事も併用でした。風呂は五右衛門風呂、便所は汲み取り式で冬は便所に金槌があり積もったウンコを叩き落してから用をたすのでした。窓ガラスは二重窓で冬の朝にはかならず氷の花がとても美しく咲いていました。明日はどんな氷花か楽しみでした。
 水は簡易水道で駅前に給水塔がありそこから給水されていたそうです。
 現在もその給水塔は使われていました。

 我が家にはボーイ(14か15歳)が二人いました。普通は一人ですがどうしてもと満人の双方の親から頼まれて二人を雇っていました、我々家族は満語が少し話せたためかなぁ。
 主な仕事は母の買い物のお伴で通訳兼荷物持ち、毎日炉の掃除と石炭がらの始末と石炭の焚きつけでした。石炭がらは道路に撒き突き固めて雨が降っても履物に泥が付かないようにする大変な仕事のようでした。

 道路は泥のままですから雨が降ると泥んこ道になり歩くのは大変でした。
 もう一人のボーイは私や弟妹達のお守です。何処でも連れて行ってもらいました。記憶は薄いですが、満人の子供たちと一緒に遊んだり、ボーイの家に遊びに行って近くの満人の子供たちと遊ぶことが多かったようです。

 母はいつもボーイ達と私たち兄弟3人をチヤブダイに座らせてお八つを食べさせながら鉛筆と紙を置いて日語と満語の会話の勉強をさせられました。

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