2013年10月31日木曜日

中国残留孤児にならなかったボク

中国残留孤児にならなかったボク


60余年前(1946)、8月15日の夜、私は葫(こ)芦(ろ)島(とう)港(旧満州)のLSTリバティイ船の甲板で父と母の3人で空を眺めて、新京(現長春)で死んだ弟妹3人の流れ星に祈っていた。

65年以上前の1945年8月9日国境の街、黒河(アムール河畔、ソ連と国境)を離脱し北安に逃れ、此処で終戦を迎えて、新京で極寒の冬を生きのびた。

 白菊小学校?で集団生活をするも、父はソ連参戦時に孫呉の関東軍第123師団に徴集され、敗戦となり、ソ連へ連行途中に脱走した、途中偶然に私たち家族と合流した。


 父は特殊警察官(金沢郵便局電信係を経て、中野学校を経て、徴兵により中野電信隊へ、任期を終えて満州で現地除隊。


 熱河作戦の跡処理のためか、満州国警察官になり(暗号無線技士)になった。このため同胞等からソ連軍、国府軍(蒋介石)、共産軍(毛沢東)への密告され再び捕虜になることを恐れて新京郊外の電車会社の日本人社宅の2階建て官舎の2階に隠れ住んでいた。(社宅の日本人はソ連参戦を機に日本へ脱出)
 当時私は (1935・8・12生)浮浪児もどきをしていた。(5年生)



 父や母の居る隠家へは3~5日に一度ぐらいしか帰らず、満人、朝鮮人、日本人等5~10人くらいの小孩(シャオハイ)(子供)の集団になって
浮浪児になっていた。


 飲食店の裏から入り食べ物をかっぱらうやら、商店、屋台に陳列してある万頭(マントウ)をかっぱらい、皆で分けて食べ、ビルの空部屋に入り込み、盗んできた獲物を見せ合いわいわいがやがやと暮らしていた。
 
 常習の泊まる所はたしか南湖に近い空きビルで元銀行の3階の部屋だった。
 
 もう一つは孟家屯駅(現南長春駅)の南新京寄りの踏み切り番をしている、満人の家だった。
 
 この満人の家には本当によく泊まった、豚を養っており、便所は豚小屋と直結しており、大便は、直ぐ、豚が食べてくれた。

 此処の満人は浮浪児を集めて働かせたり、助けたりしていた。私も石炭を持って行き快く買ってもらい、助けられた日本人孤児の一人だった。
 孤児になっていると思われる子供を連れてくると喜んで面倒を見てくれた。


 特に女の子は喜んで世話をしていた、女の子は元気になると居なくなった、男の子も居なくなったが、女の子は特に良く世話をしていた。


 仲間たちは女は高く売れるからだよの言葉が今も耳に残っている。


 今思うと残留孤児になり自分が誰であるかわからない不明の日本人残留孤児になっているかもしれないのです。


 でも人間として生きていたと思うと死んでしまった子供たちがなお可愛そうになります。


 ある日、隠れ家に帰ると置き手紙をしてあり、日本へ帰るから、新京駅へ行き日本人に聞いて汽車に乗れとあった。


 父からは一人になったら、日本の住所を書いてある紙切れを何枚も持たされておりこの紙を日本人に見せろ!と常々言い聞かされていた。
 だが日本へ帰っても残忍なアメリカ軍が占領しているから奴隷にさせられるかも知れないとも云っていた。


 日本での生活を知らないボクはこのまま満州に残っても構わないとも思っていました。


 屋根裏にはリックサックに雨具等避難に必要な品物を入れたものを隠してあった。勿論、日本の住所を書いた紙は何枚も持っていた。

 私はリックサックをかついで新京駅へ走った。新京駅の片隅に机が一つ協和服を着た日本人がいた。


ボクは父が書いてくれた日本の住所を書いた紙を見せた。直ぐ南新京へ行きなさい!と新京駅から線路伝いに南新京へ行きなさいと手を引いて教えてくれた。



宮岸清衛のエッセイと満州悲劇の図書館






      最後尾の無蓋車は横の囲いも
      ない、車外へ落ちそうな貨車
      に乗せられた。




 線路の上を走った。止っていた貨車の最後尾の無蓋車によじ登った。


 囲いもない貨車、10人程が真ん中に荷物を置き、振り落とされないように荷物を背によしかかっている人、横になっている人達だった。


 子供は私一人だった。男の人も女の人も病人のように横たわり青白い顔をしていた人もいた。
 汽車は直ぐ発車した。そしてまもなく、止まった。孟家屯駅だった。
しかもボクの乗った最後尾の車両は、踏み切り番の家の直ぐ近くに止まった。
 満人の踏み切り番は遮断機を操作していた、私は叫んだ!


ジャングイ、ジャングイと!!気がついてほしかった!!


 気がついた、満人は走ってきた。ボクは日本人、日本へ行くと話したと思う。


 満人は家から毛布や食べ物を持って来てくれた。なんとも心強いことだった。日本へ帰るなとは言わなかった。


 夕方になるとシャオハイの仲間達も集まり色んな物等食料は十分になった。


 赤い夕日の太陽が沈み、とっぷりと日が暮れてから引き揚げ列車はガッタン、ガッタンとシャオハイ達に見送られながら動き出した。
 無蓋車の夜は寒かった、満人から貰った毛布は寒さを防ぐばかりではない、汽車の石炭粉塵や煙や前の車両から飛散してくる小便等を防ぐためにとても、役にたった。


 汽車は途中給水のために何度も止まった、そのとき皆は一斉に下車して用をたした。



宮岸清衛のエッセイと満州悲劇の図書館


           無貨車が停車すると、先を争って、排泄行為をする。 
           男も女も恥じることなく、汽車が動く事を心配する
           ことが最優先になる。


 汽車の沿線は糞だらけ汽車の止まる所は何処も糞だらけ、その中を食べ物を売る満人が群がった。私は十分な食料があり、水は大きなヤカンに十分あった。


 これも孟家屯の満人に貰ったもの。私は汽車が止まるたびに、父や母が乗っていないか探した、前の車両、前の車両へと移動したが、父母はいなかった。


 そうして最後に先頭の石炭車にたどり着いた、石炭車は温かいだろうと、一晩石炭車に寝た。
 朝になると顔も身体も、すすで、真っ黒になっていた。
次に汽車が給水のために止まった時、満人の機関士は給水所で私を裸にして洗ってくれた。


 服も洗ってくれた、そして、機関室で暖をとらせてもらい、衣服も乾かしてくれた、あり難かった。


 三晩くらいを過ぎてからか?汽車は砂漠のような木のあまりない、平原を走っていた、茶色い山が連なる中で汽車は止まった。


 下ろされた、そして何時間も線路沿いに歩かされた、荷物は捨てた毛布も、リックサックと少しの食料とヤカンの水だけになった。
 大きな葦で囲んだ収容所に着いた。遠くに海が見えた、青かった。
 男の人が私を連れてアンペラに座っている人々の間を、宮岸さんはいませんか、宮岸さんはいませんかと大きな声で私の手とつないで歩いてくれた。


 間もなく父と母が見つかった、感動はどうだったか記憶にはない、その日直ぐに船に乗った。昭和21年8月15日の晩に間違いない。


 緑したたる美しい日本を見ずして船内で力尽きた人には公海では水葬に港で上陸待ちにに亡くなった方々は日本の土に埋葬されたのでしょう、少し幸せだったかな。



宮岸清衛のエッセイと満州悲劇の図書館

LSTリバティ船(上陸用舟艇)は
アメリカ軍から借用したものだった。


 母は昨年平成17年3月17日に93歳の生涯を閉じたが、この話は生涯語らなかった。私も語れなかった。
中国残留孤児にならなかった私は奇跡的に助かり親と合流できたのです。
私に奇跡は当時3回あった。
 奇跡が起きなかった子供たちは死亡したか、孤児になり、中国人に助けられ中国人と信じて生きている人達がいることを忘れてはならない。

1 件のコメント:

  1. 2013年10月14日熱海温泉で 「中国残留帰国者の会」 に出席しました。
     74名の参加者は昭和33年と昭和36年に帰国した人たちが大部分でした。
    満州で孤児になって中国で活躍していた人々です。
    長春で孤児になり、ボクが孟家屯の踏切番の満人の家に連れて行き助かり帰った人も
    居たのでないかと期待と?におびえとても良い会に出たと喜んでいます。
    どうぞ、感想や貴方の経験等をお願いします。

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