2013年10月31日木曜日

”母に”軍人恩給扶助料(遺族年金)が支給されました

はしがき
 父が死んでから54年目にして、88歳の母に、軍人恩給扶助料が(平成15年6月)支給開始されました。まさかの快挙でした。
 恩給扶助料とは、遺族年金の事で戦前の官吏を対象とした年金制度です。

 昭和28年に軍人恩給は復活しました。
父、清太郎は約20年間官吏でした。

※ 父の職歴概要  大正13年4月金沢郵便局へ奉職・昭和7年1月徴兵により東京中野の電信第1連隊へ・昭和8年12月満州国警務庁国境警察隊へ以降転勤を重ね、日ソ開戦直前は黒河警務庁分室勤務、昭和20年8月14日孫呉の関東軍第123師団へ入隊、8月18日ソ連軍捕虜に、8月23日ソ連へ逆送途中脱走、翌昭和21年8月引き揚げ、昭和26年病死。
扶助料受給申請手続きまで
 私が高校へ通ってる昭和30年前後母が恩給の遺族年金が貰えるかもしれないと奔走していたことを知っており愚痴もさんざん聞かされました。
 その一つが、満州から引き揚げて間もない頃のことです。父が金沢郵便局へ復職するために、同郷で金沢郵便局に奉職している従兄弟の梅木さんに保証人をお願いしたところ、父の満州時代の警察官の仕事が特別な仕事であったために保証人になれなく郵便局への再就職も拒否されました。
 しかし、今回(昭和28年)は遺族年金を貰うための亡父の郵便局時代の履歴を証明する書類でしたが、これも梅木さんに拒否されたそうです。母の憤慨と愚痴もわかります。
※ 特別(分室)な仕事とは 諜報・防諜・謀略であり、特務機関・憲兵・警察の3組織からなり、これを分室と呼んでいた。ソ連のゲーペーウー(K・G・B)、アメリカのCIA,ナチスのゲシュタポ、蒋介石軍の監衣社、毛沢東軍の遊撃戦範等を手本にしたと言われている。父はこれの暗号無線解読無線担当警察官をしていたと聞いています。いわゆるスパイです。
 母は恩給扶助料については諦めたのか話すことはありませんでした。
私は父の仕事、満州時代を懐かしくよく本屋を覗き満州に関係した本を買い集めた物です。金沢の尾張町に東山房と言う本屋の主人は満州関係の本を注文もしないのに職場へ届けてくれていました。尾張町にあった古本屋で満州国警察官名簿を手に入れ知っている人はいないか母と見ていたが・・・しかしでした。

金沢の東・中・警察本部へ行き父の履歴が欲しいと頼んだが、答えは外国の警察官のことは分からない・お門違いだ・待たせたあげく死んだ人のことは外部に知らせることは出来ないと断られました。
 父が亡くなる前の昭和25年(朝鮮戦争勃発)の夏休みに父を見舞いに行ったときアメリカ軍(GHQ)が来て父のノートを5冊持って行きお金を置いていった話は、満州時代の特別(分室)な仕事と大変関係があり、これを警察が把握しており父の履歴を教えてくれなかったと私は思っています。まさに共産主義対資本主義の時代でした。
満州悲劇の図書館

昭和32年に引き揚げ者給付金を申請したときの書類「死亡した者の外地における情況、引き揚げ情況、引き揚げ後の死亡情況等に関する申立書」父の履歴はGHQに書類があり私たちには知らされなかったと思うと残念です。この書類を手に入れておれば母に恩給扶助料が昭和30年頃から支給されていたのです。

※ GHQとは
連合国最高司令官最高司令部の略語であり、アメリカのマッカーサー元帥が日本を統治していた。

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