2013年10月31日木曜日

軍人恩給扶助料(遺族年金)が支給されました(4)

黒河警務庁分室の在職証明
 昭和20年当時黒河警務庁に在籍していた生存者を探して、宮岸清太郎なる人物を知る人を探し出し、昭和20年当時黒河警務庁に在籍していた証明が必要になって来た。
 昭和20年(1945)当時から60年程たった今日、生きて証明してくれる人は、はたして居るだろうか?
 以前金沢の古本屋で見つけた「全国大陸警友会名簿」にあった県別名簿から在満州勤務地が黒河省勤務の人を選び、氏名と都道府県名を便りに、住所と電話番号は図書館の全国電話帳から、調べ上げて81名の方に「私の父宮岸 清太郎」を知りませんかの要旨を書いた手紙を送り返事を待った。
13件の返事があり、手紙が3通、ハガキが7通、電話が3件でした。
 返事はいずれも知らない、大変な時代でしたねよく、生きて帰った、これからも頑張っての趣旨の返事が大半でした。館林市の斉藤猪三郎さんのおくさんが、ハガキに警友会の資料を送りたい、主人が亡くなり資料の処分に困っていたところです。の文面があり、即電話にて資料の送付をお願いしました。
 ダンボール一杯の資料の中に厚さ5cmほどの「満州警友住所録」があり此れには電話番号も記録されていました、でも旧番号(10桁になっていない)、当時であったので変換して使う必要がありました。
 早速黒河警務庁勤務者を探して電話かけっぱなしにしました。返事は該当の電話はありませんでした、がほとんどであり、返事があっても、過去の世からの電話、と思われ胡散くさそうに思われていたようです。
 東京、狛江市の石村 省三さんからの、返事の手紙には「貴殿の父上は身分、警佐とありましたが黒河省警務庁には敬佐は4名でした、全て私は知っています。私が警佐でした。もしかすると、貴殿の父上は特務機関員でしょう。旧満州の特務機関の人を紹介しましようか。」でした。

満州悲劇の図書館

郵政省では通信事務員を辞めて何になったのか転勤の記録も、不明であり。退職金を支給した証拠もなく困惑していた。
私が考えるには身分は公務員のまま、郵政省内で潜行させてしまった??
恩給年数が不足だったら郵政省を追求したであろうが、・・・恩給年数は十分だった。






石村 省三 著書 「昭和20年8月9日、ソ連の対日宣戦対する黒河省警務庁の最後の行動」S25.4  の抜粋。 ・ ・・(3)黒河特務機関、黒河憲兵隊の行動
現在日ソ中立条約が有効であり、万一ソ連軍が侵攻するとしても10月頃との見方をしていた。
なお、両機関は8月10日午後2時軍の指示に従い、省当局にたいして何等助言することなく家族とともに孫呉に避難して行った。

    警務庁の対応
(3)警務庁内の重要書類(特に分室)の焼却。
父、宮岸 清太郎は黒河では常時協和服、私服、便衣を着用しており、官服(警察官)を着用しなかったため、味方の警務庁職員も知らなかった。

ウ、金沢郵便局の在職証明右の履歴書は石川県援護課が金沢郵政局から取り寄せたものであり 私が金沢郵政局へ履歴書を請求しましたが対応してくれませんでした。個人には冷たいものでした。 S6.4.21依願通信事務ヲ免ズ(自己便宜)からS7.1.9までの期間を郵政省で探してくれる様お願いしたが、記録なしとのことでした。
 私が父から聞いていたのは、東京の中野無線学校へ公費により留学(無線設備の構築、中国語、朝鮮語、ロシア語取得)していた。

S7.1.10中野電信隊へ徴兵入隊。この間の証明が無く公務員通算にならないことでしたが12年以上の勤続は確保できていました。

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