2013年10月31日木曜日

軍人恩給扶助料(遺族年金)が支給されました(2)

扶助料申請手続きまで(2)
 引き揚げ者給付金は「10年国庫債券」で受領した気がします。10年間に分割して貰うには、貧困生活の我が家では待ちきれなく、郵便局で?6掛けぐらいで割って貰ってしまいました。それでも当時は大変な大金で有り難いお金でした。  30余年電電公社に勤務している間に3回ほど警察へ行き父の満州国警察官に対する母への恩給扶助料受給について話をしましたが・・・駄目でした。「外国の警察のことなど取り扱っていない」「警察本部へ行ってみたら・・・」「待たせるだけ待たせて此処ではわからない・・・」


 父は兵隊に行く前金沢郵便局に勤めていたと聞いていたので、金沢郵政局へ行き電信関係の仕事をしていた宮岸清太郎の履歴書を貰えないか訪問したが、そんな古い書類は探せないと断られました。  平成5年、NTTを退職した夏、一人で旧満州巡りをした。死んだ弟妹達を埋めた場所を探しに、私が通った小学校巡りへと。
 しかし、弟妹を3人並べて埋めた場所は長春南湖公園の一部になっているらしく、場所の確認は出来なかったが線香は上げた。小学校は黒河だけ訪問することができた。



 黒河飛行場へ着いたときから中国公安員(警察官)が旅行会社の通訳と共についてきて、食事の時は食堂の隅に、部屋に入ると下の道路に立っていた。


味が悪かった。中国は警察国家だから致し方ないとは思った。次の日の朝にも食堂の隅に立っていた、私は手招きで公安員を呼んだ。公安員は「貴方は宮岸清太郎ですか?」と訪ねた私は「宮岸清太郎は父です」と答えると「今何処にと」訪ねたので「私の父は死んだ」と答えた、すると公安員はにこにこと笑って帰ってしまった。


 そのにこにこ顔が今でも目に映ります。公安員は肩の荷が下りたのでしょう。父が死んで50年経っても、かの国はあの時代の人物を今でも捜していたのでしょうか。
 第2の職場も退職したある日、図書館で満州国警察小史を偶然見つけて読んでいると、頭越しにのぞき込む老人が、何を勉強しているのと問いかけて来ました。
 老人はソ連へ抑留された事があり満州についても知識があり話に花が咲き楽しい一時でした、別れ際に老人は石川県援護課へ行けば恩給のことが分かるからと教えてくれました。この老人のお陰で恩給扶助料が支給され、恩義ある人なので一言お礼が言いたくて図書館へ通っていますがまだ、再会できません。
恩給の請求手続き
 早速、石川県援護課へ電話で請求手続きをしました。担当者は分かりやすく私の話を聞いてくれて「貴方の申告された内容でしたら恩給扶助料は支給されます。」ただし、いろいろ証明が必要ですから援護課へ来て下さいとのことでした。
 万を辞して石川県庁へ走った。(平成14年1月19日)
 県援護課では兵役台帳の宮岸清太郎 の欄を開いてあり 私を待っていてく れたようでした。

 なぜ、今まで請求 手続きをしなかっ たのですか、と聞かれ警察や郵政省
 問い合わせをしたが、問題解決にはならなかったのですと答えた。
  恩給の受給権は、死亡などの給与条件が整ったときから7年間請求しないと、時効になります。と言われたが、父の特殊な条件(ソ連軍からの脱走・分室と言う特殊勤務・満州国警察官)等を話した。


 恩給対象の勤続年数は警察監護職員12年であり、かつ、昭和20年8月15日現在軍籍にある者と言われ、終戦時の在籍証明書、(ソ連が満州国へ侵攻したとき昭和20年8月15日の在籍証明者2名)兵役除隊から満州国警察官になった日は連続しているか等々。でした。

満州悲劇の図書館

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