2013年10月31日木曜日

軍人恩給扶助料(遺族年金)が支給されました(6)

4. 証明事項のまとめ(出来る限り2名以上)
ア、 満州国警務庁勤務地在職証明の概要
・ 外務省からの証明による勤務地と警察官位(昭和8年12月から昭和18年9月まで)

・ 安田彦七さんの証明、恩給番号紹介によるもので、父と同年兵で除隊が同じく(昭和8年12月1日)父は満州国警察官に安田さんは満州国民生部新京勤務でした。
・ 小沢小善治さん(黒河省公署省長官房弘報室、身分満州国政府委任官)の証明、宮岸は黒河勤務時代が警察官(警佐)であり無電室勤務、諜報担当で、常時私服でした。
・ 森山堅吾さんの証明は黒河警務庁無電室勤務で、ソ連父の部下でした。
イ、 終戦時の軍籍証明(父は昭和20年8月15日戦闘中)

・ 森山堅吾さんの「宮岸清太郎様について」の証明文による。昭和20年8月14日午前0時、関東軍第123師団第4軍正面、北孫呉陣地、歩兵270連隊(大田喜一連隊長・大佐)第2大隊所属へ。


8月19日武装解除され、宮岸さんの第2大隊は8月23日にソ連へと出発しました。途中3人で脱走射殺されたと聞く、宮岸さんの拳銃と背嚢を示しながらソ連兵が叫んだそうです。 ※ ・ 証明にはなりませんでしたが、黒河の官舎で右隣の佐々木さん、(黒河国境警察隊)が孫呉の部隊でソ連軍の砲弾により戦死したこと。
※ ・ 証明にはなりませんでしたが、黒河の官舎で左隣の山岸さんの通やを父が昭和20年8月8日夜行い、それに参列した若林さんが「アムール河畔英霊に捧ぐ」著書 松風 戦史
759ページに「黒河脱出にあたり」の内容にソ連戦線布告の前夜の通やの模様と黒河街の様子を書いてありました。
ウ、 金沢郵便局の在職証明

・ 私が電話と、直接金沢郵政局へ伺い父、宮岸清太郎の履歴書を請求したが、沢山の資料の中から大変だと断られた。しかし石川県からの請求だと直ぐに出してくれた。個人には冷たいものです。
ただし、大正15年4月1日から昭和6年4月21日自己便宜退職の証明がありましたが、以降記録無しで恩給通算年数にはなりませんでした。これが必要だったら・・・。



5. その他 沢山の20数名の方々から励まし等のお手紙などを頂きました。この人たちの情報から満州2世の仲間が増えて毎年東京秋葉原の2世宅に集まり、(関東喘息交流会に出席の都度)満州育ちが懐かしき、かの日々を語り合っています。


※ 著書「運命の舞台」(ダイヤモンド社 平成9年発刊)石橋 信夫 の 
記述には父は特務機関出身者となっていたが、警察官であり、射殺されたのは3名となっていたが2名です。父は無事脱走して日本へ帰えりました。



満州悲劇の図書館



 父が何故無謀な脱走を企てたか親戚・知人は不審がっていました。
 父が脱走した理由は、警察官(諜報)

すなわち、日本のスパイであり捕虜になれば確実に銃殺刑になったでしょう
 軍人勅語の一節に「生きて俘囚の辱めを受けず」を忠実に守ったのです。



 平成15年4月から母に恩給扶助料が支給された平成19年3月まで93歳で死亡するまで、年間約94万円の支給を受けていました。
 私は今、父の履歴調査で沢山の知人・友人を得て交流を深め、充実ある後期高齢期を迎えようとしています。



あとがき


 石川県の警察・金沢郵政局が父の職歴を提出してくれていたら母へは恩給扶助料は昭和28年から平成16年まで支給されていたならば生活は変わってい


たでしょう。結果は平成16年6月から約4年間支給されたのです。役所とは全て
否定することから仕事をしていることを実感しました。


もし恩給又は扶助料を請求出来ると思われる方は根気よく役所に対応してください。


                                         おわり


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