2014年7月1日火曜日

ボクの満州生活あれこれ11

第2話 塔(とうこく)虎城内(当時は大賚(だーらいじょう)城)又は(大賚郷)に住む













遊び 2
 昨年の春上海から蘇州(金沢市と姉妹都市)・杭州・無錫・紹興・烏鎮と大湖・西湖を一周した旅で淡水真珠の養殖をして真珠を生産し商品化し販売している商店で真珠を買ったところ「からす貝」から真珠を作っていることを知り、食用の缶詰はないかと聞いたところ、あります。と返事があり買い求めたが在庫切れとのことでした。

 店員はよく売れると話して、何処かのお土産店で買えばとのことでしたが、途中3店程訪ねたが売り切れと云われ残念な思いをしました。

 からす貝の真珠は貝1個で10個程の真珠が出来るそうですが、良い真珠は100個に1個ぐらいだそうです。
 そのクズ真珠を色々に加工して販売しておりクズ真珠も立派に商品として販売していました。

 からす貝は水質の環境を測る基準としても大切な一面を担っています。魚に「タナゴ」と云う美しい小さな淡水魚がいます。引き揚げて父の水郷の里で鮒釣りをしている頃、小鮒は甘露煮にすると美味しいから釣ってこいと大人たちに云われ釣っていると、時々、綺麗なタナゴも釣れて持ち帰り小鮒と一緒に甘露煮にしたが骨が硬くて美味しくなかったことを覚えています。

 タナゴはからす貝の中に産卵して子孫を増やすことを知りました。金沢の河北潟が汚染されてからす貝、タナゴ、金鮒もいなくなりまだ、復活していません。まだ河北潟の環境対策が必要です。タナゴはへら鮒釣りと同じく釣りだけを楽しむ釣り会もあるそうです。こんな楽しそうな家族でタナゴ釣りの写真がネットにありました。

 へ、 その他、当時見た満州大賚(大安)の風俗

ボクの満州生活あれこれ10


第2話 塔(とうこく)虎城内(当時は大賚(だーらいじょう)城)又は(大賚郷)に住む
 







遊び 2
 
ニ、 パチンコ(ゴム鉄砲)
  木の枝の適当なY字型のものを切って作るのだが杏(あんず)や棗(なつめ)の木を切ってしまい、満人に追っかけられて叱られ父が謝りに行った記憶があります。
 満人は父に謝られると平身低頭して其の後はボクは威張って悪いことをしても叱られなくなりました。
 父の日本人の威厳でしょうか、父は官服を着ないで協和服か便衣でしたが、満語は通訳の資格も持っており常に満人とは老若男女を問わず問いかけてお話をしており良い日本人の見本であり常に満人の苦情を聞いていたようです。

 満人の子供たちもボクのあとにぞろぞろと付いてきて、おこぼれを貰うのと、空気銃が珍しくキョロキッョロしていました。

 大賚街城内付近には雀が沢山生息しており人間にとって格好の食糧、すなわち、本物の「焼き鳥」です。日本で大量に消費されている「焼き鳥」は違います。

 金沢へ帰った時にはまだ、雀・ツグミを捕獲して本当の焼き鳥を食べました。
 とにかくボクは満語(中国語)、鮮語(朝鮮語)ともに子供の会話に不自由しなかったようです。そのため、ボーイを従えて満人や鮮人の子供たちと遊んだものです。

 雀の毛をむしり取るのは苦手でした。雀を丸ごと茹でて、毛をむしり取り、金串に刺して七輪の炭火で焼くか、炊事の釜戸の中で焼くのです。骨が多く身が少ないけれど、頭を噛みつぶして、中にある脳みそを食べる珍味は忘れていません。

ホ、 河遊び (釣りや貝とり)
 夏になると嫩江の河べりや埠頭で遊びました。嫩江にはジャンク(中国の帆船)、カイで漕ぐ漁船に乗ったりして遊びました。また船上で暮らす家族の子供たちとも遊びました。

 日本から送ってもらった竹の釣り竿は大きな魚が掛り折れてしまい父は直して補強して大なまずを釣り上げては竿の手直しをしていました。

 ボクたち子供は柳の木で作った竿で小さな鯰や鮒を釣っていました。魚は沢山棲んでいました。
 水に入ると川べりの砂地では貝が採れました。それは黒い「からす貝」です。

 大きなものは長さ30センチ程もありましたが、大きいのは硬くて食べられませんでした。満人は身を薄く刻んで乾燥して焼いて食べていました。酒の肴にしていたようです。

 ボクたちは小さいのを採りました。母は貝の身を煮込んで食べさせてくれました。からす貝の採り方は、貝が水中で口をあけているのを見つけて、そっと、細い木の棒を差し込み貝が口を閉じた時に棒を引き上げて採るのです。

 日本へ引き揚げた秋、父の実家、金沢市木越は河北潟に近く水路が縦横無尽に通っていました。晩のおかずに魚を釣ってこいと父に云われて小鮒を釣り、水路に見たことのある貝が口をあけているのを見つけて、ニンゴ(稲の穂の茎)を差し込んだらからす貝、5~7センチくらいの大きさ10個ほど持ち帰り美味しく食べ、
貝が採れたことを褒められたことを思い出しました。

ボクの満州生活あれこれ9

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

遊び









 春が来ると雪溶けのぬかるみ泥の道で色んな遊びをしました。ボクは一年生一人です、腹式学級で学年差はなかったように思います。ボクは満語がある程度話せるので日本人同士よりボーイの仲間と遊ぶことが多かったそうです。

イ 陣取り合戦
 満人は木釘を使い粘土質の地
面で上手に木で作った釘を突き刺していた。ボクも鉛筆を削って陣取り合戦に加わり、鉛筆に羨望が集まり、母が字を書くのですよと、小孩(しゃおはい)(子供)達に渡していました。
小孩(しゃおはい)たちの喜びがまだ見えます。
 内地では5寸釘を逆さまに持って地面に突き刺し陣取り合戦をしました。
 鉄釘は当時の満州では希少価値だったのでしょう。日本でも戦時中金属製の物品の供出が強要されたそうで、金属は戦争に希少価値だったのですね、今の希少金属と大差はないと思います。

ロ 羽根つき
 満人は足の内側や甲で上手に羽根をつくのです。
女の子が主でしたがボクにもやれと責められ苦戦しました。羽子板を日本から送ってもらい見せびらかしたが今一つうけないようでした。
 羽根は満州の物は本当の鳥の羽根と木の実でした。

ハ. 輪っぱ転がし
 満人の子供たちは針金や柳の木の枝で作った輪っぱを上手に転がしていました。それをボクも借りて遊んでいたのですが、父に見せて自分にも作って欲しいと、頼んだか覚えはありませんが父が作ってくれました。
 輪っぱは満人の子供(小孩(しゃおはい))達は柳の木を利用して丸くし、転がし棒も木でした。
 柳の木は丸く加工するのが大変らしく丸い輪っぱはあまり持っていませんでした。
 父が考えたのは醤油樽の竹の輪で樽をしめてある竹輪に注目したのでした。
 味噌樽や醤油樽は日本人の家には大概あったと思われます。その竹の輪を活用したのです。
 満州には竹はありません、寒くて生育しないのでしょう。満人は竹が珍しくて、特に釣り竿が真直ぐでしなっても、元に戻る勢いが柳の木との違いが不思議のようでした。
 樽を締めている輪っぱは太すぎて転がすのに重たく竹をほぐして軽くしてボクにも扱えるようにしてくれました。
 幾つも輪っぱ作り満人の子供達にも分けてあげました。
 満人は竹を扱ったことがないらしく大人の満人も不思議そうに竹の輪っぱを転がしボクたちの仲間に入って来てボクは得意になっていました。

 転がし棒も針金を父に加工してもらい扱い易い針金の転がし棒になり満人達にも分けて上げました。満人の父や母たちはお礼と云って色んな野菜や果物やお菓子までも持って家に来ました。二人のボーイも自分の雇われた主人が色々と子供たちとかかわってくれるので鼻が高かったことと思います。
 満人の作った輪っぱは1本の柳の枝を真っ直ぐに伸ばして熱いお湯に漬けて丸くするのです。それからつなぎ目は段ちに切り凹凸が出ないように柳の皮で切断した合わせ目の上に巻き付けて仕上げるのです。
 転がし棒は木の枝を縦に割り、裂け目が大きくならないように、裂け目近くに横棒を木の皮を巻き付けて仕上げるのです。
 父とボーイは何時も家の前で何かを作っていました。
 

ボクの満州生活あれこれ8

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

アイススケート2








 ボクの下駄スケートは昭和16年9月に父の転勤で間島省汪清縣張家店森林警察隊の森林の中から大河のほとりの崩れた城壁の中(大賚城)、龍江省大賚省公署勤務になってやっと父や母は息子を学校のある街に連れて来られたことをとても喜んでいました。ボクより父母の方が人が沢山いる街に来たことが嬉しかったのでしよう。

 森林警察隊の狼の遠吠え聞く夜・川の向こうに夜は沢山の野獣の二つの目の光に脅えた生活から早く逃げたかったのです。

 ボクは幼少であり満人や鮮人(朝鮮人)の子供たちと遊んでいたので父母は日本語が話せなくなるのでないかと本気で心配したそうです。

 はじめは満人達とスケートをするとき城外の池の氷で滑っていました。雪が降ったり、氷が解けたり凍ったりするとリンク面が凸凹になったり又スケートリンク場のようにトラック状になっていないためスピードも出なく面白さがなくなった頃に学校の運動場にボイラーからお湯を出してスケートリンクが出来ました。 水を捲いても水の出る場所から氷始めて氷に段々が出来るためにスチーム用のボイラーのお湯を捲いていたのでした。

 零下20度程になるとボイラーのお湯を使ったとのことでした。

 下駄スケートを履いて満人の友達と日本人学校で滑っているのは、他の日本人生徒から見ると奇異なようだったそうです。

 満語をペラペラしゃべるボクを奇異な目で日本人の大人も子供も満人達見ていたそうです。それは父が国境警察隊や森林警察隊暮らしでボクの遊び相手はボーイや満人の警察官・その家族・満軍の兵隊達が主だったからでしょう。

 豚皮のショートスケート靴は少し大きかったが下駄スケートで鍛えたお蔭で足首が曲がることもなく上手に履いてスケートをしたと自負してます。

 嫩江の氷上では人力ソリが活躍していました。

 ソリには鉄板を打ち付けてあり氷の上では重たい荷物を運ぶのに便利です。ソリは一本の竿で上手に操って氷上を滑って荷物を運んでいました。

 冬の真っ盛りには川の氷を切り取って夏のために蓄えるためにいたるところで氷切が始まります。当時冷凍設備は少なく食べる氷も夏には河から切りだした氷が主体だったそうです。

 また、当時も現在も、氷を松花河より切り出した天然の氷を使用しています。ハルビン氷祭りは「世界三大氷祭り」の一つに数えられるイベントだそうです。ハルビン市の各地の公園を中心に氷彫刻や氷の建造物が展示され色とりどりの蛍光灯やLEDでライトアップされ、ハルビン市内の兆麒公園では国際的な氷彫刻大会も毎年開催されています。

 三寒四温のはっきりしている満州では三日間の吹雪や寒さを我慢すれば四日間の穏やかな日に外仕事や運動をして体を働かします。あとはペチカやオンドルで暖かく過ごすのが冬の生活でした。

 四月になると道端の氷は解けたり凍ったりしながら五月になると満州の“春一番”蒙(もんくー)古風(ふぉん)(黄砂)が吹き、空いちめんを黄色く染めました。当時はPM2,5は無かったです。

 蒙古風は一度や二度でなく、そのたびごとに、短い春が近づいてくるのでした。                
 そして柳の木が一斉に芽吹き、迎春花は可憐に咲き、慌てふためいたように杏の花が咲き、梨の花が続く。とくに杏の花は、満州の花の象徴のようです。

 杏花は日本の桜の花のように冬の寒さからの解放の喜びを実感させてくれたのです。ボクには泥道の春は蒙古風もあり綺麗なものではありませんでした。

 最初に咲きはじめる花が迎春花(黄梅等)です。小ぶりの黄色い花です。この花が咲き出すと、春が来たのだと実感します。

 迎春花とは(げいしゅんか・インチュンホァ)春を迎える花と云われています。








ボクの満州生活あれこれ7

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

アイススケート
 まだボクは国民学校へ入学一年以上前の冬のはじめ運動場の氷は十分でないのでボーイが近くのため池に連れて行ってくれ下駄スケートを借りて履いて滑っていた。

 ボーイに借りて滑るが靴が合わなくてだめ、父にねだってボーイに下駄スケートを作っている鍛冶屋へ連れていってもらい鉄の細い薄い板を石炭の火の勢いをフイゴで強くして真っ赤になった鉄を何べんも叩いて水にジューと漬けて焼いては叩いて伸ばして繰り返していた。








 これをヤキを入れると云い(広辞苑より)
① 刀の刃を焼いて叩いて鍛える。
② 私刑を加える。拷問する。
③ 刺激を与えて、たるんでいるのをシャン
とさせる。・・・だそうです。

 満人は在満国民学校のスケート場では滑られなかったのですが父が学校に話し午後学校の授業が終わってからボクと滑ってもよいと許可をもらいボーイ達も喜んでスケートをしていました。
 右の4種類の下駄スケートは日本各地の気候等により工夫して作っていたようです。

 金沢は雪が多く、道路の雪は踏み固められ、つるつるとした凍った最高の滑走リンクにななった。
昔は車も殆どなくソリが時々通っていたから、ますます表面が固まって滑りやすかった。タケスキーを引く者や孟宗竹で作った「タケッポッポ」を履いて滑ったものです。

 竹スキーやタケボッポッは履物屋に売っていて、足袋を履いて履くのでした。ボクが満州の大賚で滑っていた下駄スケートは刃が立ちエッジ効き満人たち小孩(しゃおはい)(子供)は羨ましがっていました。

 鍛冶屋は日本人のそして満語を話す警察官の子供のスケートをつくり、さぞ気をつかったことと思います。

 昭和17年正月が終わり冬本番の零下20度以下になったころ大賚(だーらい)在満国民学校校長落合先生がスケート靴の新しいのが一足余っているから今年入学予定のボクに配給を速めて持ってきてくれました。

 スケート靴は少し大きかったが靴下を重ねて履けば丁度いい感じだったと思っていました。
戦雲厳しい頃、豚皮のスケート靴がボクにとってはこんな嬉しいことはありませんでした。

 それ以降ボクはスケートが楽しみで、お昼ご飯を食べると直ぐにスケート場で学校の授業が終わるのを待ちスケートリンクの淵に立ったり座ったりボーイと会話をしたりしたためか、ボクの満語も上達したのかもしれません。

 鍛冶屋さんに作らせた下駄スケートはボーイに上げたそうです。ボクは覚えていませんがボーイの両親はすごく感謝していたそうです。

 以降、野菜は買うことなく白菜、馬鈴薯,葱、人参等と西瓜、まくわ瓜、杏等ほとんど必要な食べたい野菜は母に聞いて翌日には必ず持ってきたそうです。満人にはボクの下駄スケートが高級に見えたのでしよう。それはヤキを入れたスケートの刃が価値あるものだったのでしょう。

 魚は父とボクが沢山釣って近所やボーイ達に上げました。母は野菜を遠慮なく貰い、魚は沢山釣ってきたものは皆に分け与えたそうです。

 父は満語が堪能だったため、なお城内の満人の信用も受けて満人からの貰い物も多かったようです。

 1年生入学前の配給スケート靴はショートスケートでした。

スケートの種類
・スピードスケート(ロング)用の靴のブレードは長く真っ直ぐです。エッジは最も薄く、靴も軽く小ぶりです。ショウトトラック用では、靴の位置がロングよりも高いです。
・アイスホッケイ用の靴はブレードとほぼ同じ長さで、両端がやや上に向かって反っています。スケート靴は激しい衝撃にも耐えられる作りになっています。
・フィギィアスケート用の靴はブレードとほぼ同じ長さで、つま先側にギザギザがあり、かかと側は真っ直ぐです。先端のギザギザした部分で、ジャンプの踏切り時に用いられます。 靴は足首が固定されるブーツ状で初心者にも扱い易く、スケートリンクでは一般滑走用の貸し出し靴としても使われています。







ボクの満州生活あれこれ6

第2話 塔虎城内(当時は大賚城)又は(大賚郷)に住む

 ボーイの親が時々お菓子を持ってきてくれたり、餃子の作り方を教えてもらっていたのが母は楽しみだったそうです。その餃子の味は母亡き今も伝授されています。年に2回ほど孫たちが集まった時に作っています。






 満州は魚も野菜もでっかい

 父は家の裏に畑を作り日本から種を送ってもらいトマトやキュウリを作っていました。母の実家は種屋でしたので便利さもあったのでしょう、ボーイの家族にも上げていたそうです。
トマトやキュウリは大きくなりすぎて気持ちが悪いくらいだったと母は話していました。

 普通煮物にして食べるのですが小さいのを採って漬物にしても熟してなく硬くて食べられなかったそうです。

 嫩(ノン)江(コウ)で獲れた大きな鯰や鯉等が沢山売っていました。
日本でこんな大きなキュウリや鯰は見たことがありません、作物や魚はとにかく大きいです。

 日本の作物等は金魚鉢で育ったように小さいのです。

 人間も満州の北は大きいのです。蒙古族、満州族(清族)は北欧の人たちが大きいように黄色人種も北方の人間は大きいのでしょう。

 父は私やボーイ達を連れて釣りによく行きました。鯰が一番多く釣れ何時も鯰の照り焼きがご膳を賑やかにしてくれボーイ達が照り焼きを手伝っていました。

普通よく釣れるのは地元でギュウギュウ鯰と呼んで下ヒレがノコギリのようになっている直接下ヒレに触ると手を切られることがありました。30㎝ぐらいなので料理も照り焼きにも丁度いい大きさでした。

左の図は父が1m以上の大鯰を柳の木につかまり大格闘して釣り上げたイメージ図です。満人は大鯰の皮で靴を作りたいと云ったので上げました、身は肉にして持ってきたので近所に分けて照り焼きにして食べたことを覚えています。

 満人の家は2軒長屋で何かの商売をしていました。 鍛冶屋も豆腐屋も名物の海城焼餅(シャオビン)という、挽き肉や野菜を小麦粉の皮で包み、鉄板に油をしいて焼いたものを食べた覚えがあります。

当時満州時代、土塀は崩れた所が多かった、特に後ろの嫩(ノン)江(コウ)側が崩れ土塀は場内にもぐずれた場所もあり我が家の近くにも土塀はあり父はその壊れた土塀の近くの立ち木を利用してボーイ達と子どもたちのためにブランコを二つ作ってくれました。ボクの家に近い高い土塀も
くずれていました。
 近所の子供達が遊びに来た時、満人の子供は
遠慮しながら遠くから見てましたが父や母が呼び
込んでブランコ遊びをさせていまた。
 ボクの満語は此処で満人の子供たちと遊びながら
覚えたものです。しかし70年程の時間がたつと全部忘れてしまいました。字を書いて覚えた言葉でないためだと思います。

  嫩(ノン)江が消えていた2001年の旅で、大賚城門から150m程真っ直ぐ行くと壊れた土塀の向こうの大河、嫩江は消えて一面が、水田になっていました。地元の年寄りに聞くと政府が中央から青年隊を送って来て、河を松花江との合流地点から治水対策を行い水田にしたそうです。思えば埠頭の向こう側は湿地帯が続いていたようでした。

 河が無くなれば埠頭もなく、大賚城内は廃墟と化し少しの家屋と赤いレンガを残しているだけで土塀も取り壊されて、跡地は道路に変身していましたが、舗装もされていませんでした。
 高粱(こうりゃん)畑は見当たらなく玉蜀黍(とうもろこし)畑は懐かしい姿を残していました。